映画『お引越し』鑑賞
シネマアートン下北沢で故・相米慎二監督の一連の作品の上映が行われており、先々週の『台風クラブ(85)』に続いて『お引越し(93)』を観てきました。
いや〜、やっぱ名作です。スクリーンで見る田畑智子(10or11歳)の表情は圧倒的にすばらしく、「はやく●●●なるから!」と「お●●●●ございます!」のシーンはやはり感動を覚えました。周囲からはそのシーンですすり泣きの声もちらほら。
「成長」を描くことが困難になっていると言われている現在、今観てもまったく色あせてない見事な少女のビルドゥングス・ロマンだと思います。以前 DVDで鑑賞していましたが、今回劇場で観て本当によかったです。タイトルからはちょっと内容が想像しづらいのですがすばらしい作品です。未見の方はぜひ一度ご覧になることをお勧めいたします。
青年団・演劇『東京ノート』鑑賞
平田オリザ氏の比較的初期の作品で世界各国で巡回上演されたという演劇『東京ノート』を駒場アゴラ劇場で観てきました。
近未来でヨーロッパが戦時下という設定の中、とある美術館の待合室で交わされる人々の会話。画家と絵画のメタファーが使用されて「人は物事の見たいところしか見ていない」「目に見えていない部分にいろいろな想いや背景がある」ということを観客が意識できる内容となっていました。
本作品は1994年に初上演されたとのことで、平田オリザ氏演出の代表作にして、僕が以前見ていたその後の作品のベースとなっているような作品のように感じました。
青年団の次の公演は年末・年始とのことでまた行こうと思っております。
蓮實重彦とことん日本映画を語るVOL.17『日本の幽霊』参加
青山ブックセンターで開催された蓮實重彦氏による恒例イベント・蓮實重彦とことん日本映画を語るのVOL.17『日本の幽霊』に行ってきました。
今回のテーマは日本映画における幽霊の表現のされ方、不在のもの・見えないものをどう表象するか/してきたかということ。
最初に「その存在を直接描写することなく間接的な表現で観客にイメージを喚起させる手法」として『キャット・ピープル』(1942)が紹介され、そのリメイク(1982)における見えないはずのものをCGで直接見せてしまう表現がいかにダメかということが紹介されました。
また動くはずのない死体が動く現象としてのゾンビ(ボロボロの血塗られたものではない)のゆっくり歩く薄気味悪さの例として『私はゾンビと歩いた!』(1943)が紹介され、三隅研次監督『四谷怪談』の幽霊の移動が紹介されました。
- ジャック・ターナー Jacques Tourneur『キャット・ピープル』 Cat Prople(1942)
- ポール・シュレイダー Paul Shrader 『キャット・ピープル』 Cat Prople(1982)
- ジャック・ターナー『私はゾンビと歩いた!』 I walked with a Zombie(1943)
- 三隅研次『四谷怪談』(1959)・DB
日本の監督たちが幽霊をどのように表現してきたかということで、成瀬巳喜男監督のある人物には見えてしまう半透明の幽霊、木下恵介監督におけるまさに死体のように見える(でも作中人物は死体と気づいていない)幽霊、溝口健二監督の『雨月物語』における観客はみな幽霊とわかる描写ながら作中人物は気づいていない普通の人間に見える幽霊、黒澤明監督のあくまで幻想的な存在は幻想的に描写する幽霊などが紹介されました。
また日本では「キツネ憑き」の描写の伝統があるそうで、極めて様式的ながら狐のお面をかぶったキツネ(の幽霊?)が表現されている作品が紹介されました。
日本の幽霊描写で重要なものとして、画面の外や出てくるはずのないところから出てくる「手」が重要な表現手法として使用されているそうです。
最後に「幽霊のスペシャリスト」としての中川信夫監督の作品が紹介されました。中川信夫監督の『怪談 蛇女』は必見だそうです。みなに観てほしいということで紹介されました。また今回は四谷怪談等古典物が中心でしたが、「次回の予告として」現代の幽霊を描いたものとして『憲兵と幽霊』が紹介されました。
「現代の幽霊」は次回とのことで、これまた期待です。
追記:2007-04-02
今回のイベントの詳細なレポはこちらへ。
- Contre Champ
- 蓮實重彦とことん日本映画を語る vol.17
http://d.hatena.ne.jp/hj3s-kzu/20070331
- 蓮實重彦とことん日本映画を語る vol.17
日乃本 比内や・親子丼
日本橋三井タワー地下にある秋田の比内地鶏が食べられるお店・日乃本比内やに行って親子丼(1200円)を食べてきました。鶏肉は地鶏を炭火で焼いた風味が素晴らしくかつ弾力があってもやわらか。卵(もちろん比内地鶏)は甘くまろやか。これはウマ過ぎです。ちょっとこれまで僕が食べた他の親子丼とは比較にならない美味しさでした。あまりの美味しさに5分以内で完食。これはおすすめです。
実物の写真が掲載されている案内サイトです。
- 絶品!こだわりの一品料理の名店
- #16 親子丼:「日乃本 比内や」
http://www.tabi-ch.net/gourmet/ippin/04.html#16
- #16 親子丼:「日乃本 比内や」
東浩紀氏×仲俣暁生氏トークセッション「神保町から〈東京〉を考える」 参加
あと東氏の『ゲーム的リアリズムの誕生―動物化するポストモダン2』が発売されていたので購入。『東京から考える』と『ゲーム的リアリズムの誕生―動物化するポストモダン2』を架橋するような話も聞けました。
※要注:以下のものは会場でとったメモをもとに、私が見聞きして印象に残ったことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。
『東京から考える』の前提
「個性的な街」か「工学的な街」かという対立
- サブカルチャーと呼ばれる戦後の文化の香りを独特に帯びている街が新宿から中央線沿いに拡がっている。今でも東京の文化を語るときに参照項になり続けている点に違和感。
- 2000年代の東京はタワーマンションやショッピングモールのある風景が参照項なのでは。今の東京の住人たちの文化のインフラに構造転換が起こって久しい、というのが東氏の考え。
- 「文化生活のインフラ」といったときにこれまで郊外のジャスコやTSUTAYAなどは外側にあるものと考えられて来たが、大型ショッピングモールに書店やシネコンができ文化的なインフラとしての役割を果たしつつある。それ無視すべきではないという問題意識。
- 中央線沿線は街として完成しているため新しい文化的インフラが入れない場所になっている。それを排除することで何を得ているのか。
- これまでの古典的な都市像がインターネットやその他様々な工学的技術によって相対化されるのでは。中央線的なものだけが文化だと思って、郊外に殺伐とした動物的な光景しか見ないのだとすればそれは貧しい視線。
- コンビニのように何百回通っても店員も客もまったく知らない人間のようにロールプレイするコミュニケーションは通常良くないものとして捉えられているが、コミュニケーションなしでも様々なサービスを、しかも徒歩圏で、享受できるのはある種の文化的洗練。
- 個性のある街が「テーマパークとして残る」という言い方は「なくなる」とは違う。現実として「ノスタルジーの権利」では都市計画に対抗できないだろう。
- 昭和期の雰囲気を持つ街がずっと残ってほしいというのは、次の世代が東京で生活を営むときの居住空間の再編成として最適解なのか。そこから個別の再開発の是非が問われる。
- 次の世代の利便性や本来可能であった選択肢を制限していくことをしてまで街を守るというためにはある程度の歴史等がないと説得力がない。中央線沿線的・下北沢的なものは権利主張できるか。
- 古い歴史的建造物を壊せとは思わないが、何をもって「古い」とみなすかは大変難しい問題。
『東京から考える』と『ゲーム的リアリズムの誕生』の繋がりについて
- 『東京から考える』では、人々は街にいろいろ意味を見出してしまうが、意味を見出さない場合は快適さだけが問題となる、その街にどんな意味があったとしても高齢者や障害者が入れない街よりも入れる街の方が「よい」、そういう意味の「よさ」しか残らないのではないか、ということを述べている。
- ライトノベルには物語の抽象的な「構造」と読者に心地よい「ガジェット」のデータベースの二つしかない。逆に純文学は自然主義的リアリズムとして「構造」と「ガジェット」の間を描くのが文学の使命というジャンル。その二つに分かれているというのが『ゲーム的リアリズムの誕生』の主張。
- 文化がなくていいと言っているのではなく、中間的な今まで「文化」と呼ばれてきたものがどんどん解体してきているのではないか(文化の二極解体)。
- 『動物化するポストモダン』で「動物化」が注目されたが、実は人間的なものと動物的なものが乖離することを言っている。文化的な香りが漂う街(=テーマパーク)は時々人間性を注入するために必要かもしれないが他方で人間工学的で快適な風景がすべてを覆っていく。同様にこれまで小説の内容・魅力と言われていたものが二極分解していると思って読んだ方が読めるのではないか。
ナショナリズム・右傾化について
- ネット右翼や嫌韓厨が「出てきた」と言われるが「出てきた」のではなくもともと日本は韓国や中国が嫌いなそういう国。障害者も差別するし外国人も差別する。
- これまで言説空間に出てこなかったのはアクセスできなかったから。従来の言説空間は国民全体の意見など反映していなくて、一部の出版人だけが言説を占有して「国民の意見」と僭称していた。
- その状況の成立条件は単に流通インフラによって実現していたので、流通インフラが変われば状態も変わる。これまで知識人が暗黙に不在と前提していた話が前面に出てきただけ。右傾化ではなくてこれまで見えなかった状態が可視化しただけ。
- インフラの改革によってこれまで言葉を発表しなかった人たちが発表できるようになったこと自体は良いことだから肯定するしかない。知識人たちの言説は一方で「民主主義的な価値観」や「個人の自由」を謳いながら、他方で価値判断の際に文学や出版の特権性を前提としてしまうという矛盾がある。
- もし本当に「民主的」になるのであれば、嫌韓・嫌中が6〜7割いる社会とともに生きていくしかない。韓国・中国を嫌った方がいいとは思えないが、これまで左翼・リベラルの人々が考えていたよりも遥かに困難なこと。
- それと都市論における郊外の光景の問題が関係。文化に誰がアクセスするかということは流通や技術が決めてしまう。物の流通や空間の設計が文化の内容にも決定的な影響を与えていく。それがいま目の前に現れている光景。そこからスタートするしかない。これは前提の話であって個人の趣味志向の話ではない。
前提条件から見えてくること
- 様々な人々が様々な選択肢を持てる社会を作ろうという合意で社会が営まれているのであれば、そこから論理・必然的に出てくるのはノースタイルな工学的に身体に優しい環境。
- 技術の集積による進化によって今醜いと感じるジャスコ的な風景も市場原理によって洗練されていくはず。その洗練された先にあるものは「個性ある街」とは異なるものだろう。
- 弱者のことを考えたくもないという人々がたくさんいることを前提として、弱者を救うことを考えるべき。弱者を救う立場に皆が立つべきと言ったとしても今の社会の原理がそれを許さない。そんなことは考えたくないという人は必ず出てくる。
- 世の中には差別的で偏見を持っている人たちがいる。誰も差別や偏見から自由とは言い難い。それを前提として皆が発言権を持つ社会になりつつある。
- 文芸誌がライトノベルを掲載すべきかという議論があるが、文学にとって全く大した話ではない。なぜ文芸誌に掲載されるものだけが文学であると思っているのか。その他の小説を読んでいる人たちにとっては関係がないこと。
- 下北沢再開発問題もパラレルに見える。下北沢の再開発問題に東京や都市の何かが象徴されているわけではなく、ただの地域的な問題でしかないと言える可能性がある。
※要注:以上のものは会場でとったメモをもとに、私が見聞きして印象に残ったことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。
あと会場で発売日前の特別先行販売ということで、部数限定で東浩紀氏の対談集『コンテンツの思想』が販売されていました。僕は幸運にもGETすることができたのですぐに読んでみました。『秒速5センチメートル』の新海誠監督の話や攻殻機動隊SACシリーズの神山健治監督の話は大変共感を持って読むことができました。
本日購入&最近読んでいる本
僕は学生時代からなぜか若林幹夫氏のお名前は存じ上げており文章を読んでいたので、そしてなぜか前から「郊外」という空間・テーマに興味を抱いてしまうので購入。
月刊誌『SIGHT (サイト) 2007年 04月号』では特集で「誰にも聞けない、鬱のリアル」ということで、自分ではうつ病の自覚はあまりないけれど、この前予備知識としての講習を受けたときにあまりの多くの人がうつ病とは「意欲の低下や悲観的になるなどの精神的な症状しかない」と答えていた。僕も何も学んでいなければそう思っていたと思うけれど、以前川人博氏×高橋祥友氏トークセッションで「一般の人は感情の面に現れる症状や意欲・思考力の低下に関心が向きがち。知られていないのはうつ病で身体症状がでる」ということを聞き、外科的・内科的要因がないのに身体症状が出る場合は鬱の可能性があることを知った。特集の巻頭言にもある「"うつ"をめぐる状況はまだまだそのリアルが伝わりにくいところにある」という趣旨に大いに賛同し、おそらく僕もまだまだ何も知らないと思ったのでとりあえず購入。
- 2006-09-02 川人博氏×高橋祥友氏トークセッション
「自殺を防ぐには-家族の役割、企業の責任」参加
http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20060902#p2
あと以前買ったものですが、大塚英志氏による柳田國男の(民俗学の)可能性と限界、および昨今「伝統」と呼ばれているものが民俗学の勃興とともに「いかに形成されてきたか」を論じている『公民の民俗学』を読書中。
- 『郊外の社会学―現代を生きる形』 若林幹夫
- 『SIGHT (サイト) 2007年 04月号 [雑誌]』
- 『公民の民俗学』 大塚英志