いじめと現代社会BLOG

いじめと現代社会―「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ―成城トランスカレッジのchikiさんがまたまたキャンペーンBLOGを展開中。書き忘れていましたが、もちろん僕も双風舎・刊の内藤朝雄氏の『いじめと現代社会―「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ―』は購入しております。
キャンペーンBLOGでは「内藤朝雄さんのロングインタビューや、過去に発表された内藤さんのコラムを掲載していく予定」とのことで、そちらにも注目。
はてなのトラバ形式でプレゼント企画もあるみたいなのでお持ちでない方はぜひ。

映画『秒速5センチメートル』鑑賞

kwkt2007-03-04

渋谷シネマライズにて昨日から公開された映画『秒速5センチメートル』を観てきました。連作の第1話「桜花抄」、第2話「コスモナウト」、第3話「秒速5センチメートル」計3作あわせて60分の短編アニメーション作品。『ほしのこえ』の自主制作で有名になった新海誠監督。

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予告編を映画館で観た。その美しい風景描写と「あの人との約束の当日は・・・」というセリフに必ず観に行くだろうと思った。しかし限定ネット配信もされたという第1話「桜花抄」、第2話「コスモナウト」は、そのどうしても安易に想像してしまう結末のイメージのため、ある意味期待通りの風景やセリフが流れるものの僕にはあまり響いてこなかった。
しかし第3話「秒速5センチメートル」。序盤の雪の降り積もった駅のホームでのある親子の会話のセリフで、僕は突如すべてがわかった(そのあとずっと見ていればわかることだけど)。そして第1話を起点として第2話のすべてが僕の中で書き換わった。そうか。そういうことか。この作品が観た人みなが涙するのか僕にはわからない。ただ僕はそこからもう涙が止まらなかった。泣きながら映画館を出ることになった。


風景描写の美しさが際立つ作品。第1話、彼の心は風景とともにあった。それが世界のすべてだった。第2話、彼の周囲の風景は大きく変わっていた。それでもまだ世界に触れられると思っていた。第3話、彼は風景に気付かねばならなかった。そして世界に包まれていた頃を思い出す。風景描写が繊細でリアリティがあるから感動的なのではない、その美しい風景が登場人物に(そして観ている側に)出来事とともに刻み込まれ記憶と一体となるから感動的なのだと思う。


再び第3話「秒速5センチメートル」。冒頭、彼は踏切でその人とすれ違う。それを「邂逅」と語っている/書いている人が多いことに驚く。そんな筈があるわけないじゃないか。その人が「振り返る」ことはないし「あの人」であろうはずがない。彼が偶然通りかかったその人に「あの人」を重ね合わせて昔を思い出したのかもしれないし、実は第1話と第2話で語られてきたことは今の現実に不全感を抱く彼が通りすがりのその人を見た瞬間に捏造した電車が通り過ぎるまでの物語(夢オチ)かもしれない。僕はそれでもいいと思う。自分の過去の思い出を語ることとそのことにどれだけの違いがあると言えるだろうか。
今敏監督『千年女優』で現実と虚構を越えて「あの人」を追い続けた藤原千代子は「そんな私が好きなんだもの」と己の生を肯定してみせた。「彼」はすでに何をどうすればいいのかわからなくなっていた。そんなことはとっくの昔からわかっていた。それでも彼は遠くを見つめ対象を欠いたまま何かを追い求め続けることを止められない。それはこれからも彼の原動力であり桎梏であり続ける。それを抱えたまま踏切を渡って―時には後ろを振り返りながら―前に進む。ラストでの彼の微笑みは長きに渡って止まってた彼の時間がようやく動き出した証だと思う。
自意識過剰なのは承知の上で。そのときの歳が違う。出来事の配列・時系列が違う。様々な数字が違う。季節が違う。場所が違う。それでもこれはまぎれもなくそしてどうしようもなく「僕の」物語なのだ。

追記:2007-03-21

以下の方々の感想が読み応えがありました。自分のこの作品に対する感想とどこかで重なっていてどこかで違っていて興味深かったです。

追記:2007-03-23

コンテンツの思想―マンガ・アニメ・ライトノベル最近発売された東浩紀氏の対談集『コンテンツの思想』の第一章「セカイから、もっと遠くへ」にて、2004年8月(『雲のむこう、約束の場所』公開前)に新海誠監督×西島大介氏×東浩紀氏による鼎談が掲載されており、その中に今回僕が『秒速5センチメートル』で感じたキモとなる点が新海監督本人より語られていたように感じたので引用。

西島 『ほしのこえ』の「ここにいるよ」は「いる」かぎり「いない」状態にならないわけで、・・・(中略)・・・。言っているかぎり存在し続けているわけです。
東 そうなんですね。しかも、あの作品は「ここにいるよ」って地球とアガルタで言っているだけで、実際にあの声は重なっていない。脳内世界でしか重ならないんです。ところがそこに人々はリアリティを見た。これは、一種の乖離だと思いますね。
新海 東さんがおっしゃったとおりで、『ほしのこえ』の最後、「ここにいるよ」って声が重なるじゃないですか。あれは状況としては、別に重なっていない。それは最初から自覚的にやっています。僕があのなかで言いたかったのは、演出的に重なっているように見えるんだけど、現実は別々の場所に生きていてそのさきを生きていかなければならない。その次に行かなきゃならない。話の外を「ここにいるよ」って言葉にこめたんですね。
東 そうですか!
新海 そうなんですよ。
東 僕は最初観たときには、このままみんな脳内でいようよ、というメッセージかと思った(笑)。いや、冗談ですが。
新海 そういうふうに感じてもらって、泣ける話として受け入れられるのはウェルカムだったんですけど、僕自信のモチベーションとしては、これを作ってこのさきにっていうものでした。
・・・(中略)・・・
新海 ただ、脳内世界であれ現実世界であれ、できれば責任をとって生きていきたいという気持ちがあって、じゃあどうすればいいんだろう、という想いで、そのさきを生きていくために作品のエンディングを作ってきました。
・・・(続く)・・・

(強調部分は引用者による)

友人が東京に来る

平田オリザ氏の演劇『ソウル市民 昭和望郷編』を観に行こうということで大学時代の友人が大阪から遊びに来ました。前日の土曜日の20:00頃に到着し、kawakitaオススメのお店を3軒ハシゴ(飲み屋ではない)。日曜日も、演劇を挟みましたが、東京の僕が美味しいと思ったお店に3軒行きました。たくさんのお店に行きたいとのことで、各お店ではそこのこれはうまいと思われる料理だけをピックアップして腹三〜五分目で抑えることに。そんなに食べてないように思うのですが、多くのお店を巡ったので精神的にお腹いっぱいになりました。友人も満足してくれた模様(と思いたい)。

演劇『ソウル市民 昭和望郷編』鑑賞

昨年末に寺脇研氏のトークイベントに行った際に、寺脇氏が観劇に行って大変面白かったし今という時代に観るべきものがあると語っておられたので行こうと決心。吉祥寺での公演の予約はできませんでしたが、関東では最終公演の埼玉県富士見市の公演が予約できました。ということで、富士見市文化ホール・ふじみきらりにて公演された劇団・青年団による舞台演劇『ソウル市民 昭和望郷編』を友人と鑑賞してきました。作・演出は平田オリザ氏。


『ソウル市民』は全三部作あるそうで、第一部にあたる『ソウル市民』は1989年に上演された日本が日露戦争後に朝鮮半島を併合していく中でのソウルに移り住んだある日本人文房具屋一家の光景を描いたもの、第二部にあたる『ソウル市民 1919』は2000年に上演され1919年の3.1独立運動が起こっている最中のソウルに在住の日本人文房具屋一家の光景を描いたもの、そして今回観に行った第三部にして完結編の『ソウル市民 昭和望郷編』は1929年の世界恐慌前夜であり日本による朝鮮半島支配開始から20年弱経たソウルに住む日本人文房具屋一家の光景を描いた作品。それぞれの作品が10年の歳月で連続しつつも分断されているため、個別に独立した作品としても成立しているようです。
話の設定として、文房具屋一家の主人夫婦は満州に視察に出かけており、その家の主人の子供たち(長男と三姉妹)とその主人の兄弟(親族)およびその周辺をとりまく人々が登場。文房具屋一家の長女に婿入り予定のアメリカ帰りの投資を学んでおり店の経営を合理化しようとする人物が多少は観客にとっては好ましくない性格の人物として描かれていますが、その他の人々は多少は意地が悪かったり偏見を持っていたりしますがいわゆる「世間一般で」という意味で「良い人」たちばかり。今回の劇では実際に登場しない文房具屋の主人も先代が植民してきた二代目であり、三世代目となるその子供たちは(日本の統治下の)朝鮮半島で育ち物心ついたという設定。また文房具屋一家はそれなりの大店ということもあってか、日本人書生や日本人の女中が二人いたり、長男と三姉妹とともに育った同世代の朝鮮人の元書生のエリート(京城帝国大学を卒業し高等文官試験に合格)や朝鮮人の女中二人も同居。


平穏な一家の中に存在する特別に意識されているわけでもないしかし厳然として存在する日本人/朝鮮人の区別。先に近代化を果たしたということで、朝鮮人満州の現地民をどこかで一段低く見ている視点。様々な登場人物が入ってきたり出て行ったりして入れ替わりながらお茶を飲み会話するというただそれだけでその人物の一家の中での位置付けや立場が、観る者に沁みるように伝わってきます。国が国を、人が人を支配するということは、強制力を前面に出したものとしてではなく、従順さや同化することを「自然に」求める圧力のようなものとして描写されていました。
一家の良き人たちが、今の時代では通常考えられないようなあるいは言明することが躊躇われるようなことを、平然と言えてしまう時代・社会背景。物語の中でのつい数年前にあたる関東大震災にて「じゅうえんごじゅっせん(十円五十銭)」と正確に発音できなかった朝鮮人は虐殺されたとのことで、家内の者に「ちゃんと(発音して)言えるようにね」と平然としかし優しく思いやりをもって言えてしまう感覚。誰もが明確に強制力を伴わせての支配などしていない(もちろん「反抗」が起こればすぐに強制力は発動される状態であると想像できる)、一見平穏な人々がある人々を「支配している」という状態の描写は秀逸と言う他ありませんでした。


家の中にはラジオがあり、一家にニュースを届けることで外の情報を伝え、日本や西洋の音楽が流れ気分を和ませる役割を果たします。そんな中、居間で朝鮮人女中二人だけしかいなかったときに不意に朝鮮語の唄(「アリラン」)が闖入するが如く流れはじめます。その唄に合わせて女中の一人が唄いながら踊り始めます。それを見たもう一人も感染したように声を合わせて踊る姿は非常に感動的でした。そこには虐げられている者が隠れて抵抗のために踊っているといような意識はあまり感じられず、しかし「自分たちの」音楽が流れたら体が踊らざるを得ないという意味で「支配されている」事実の渦中にある身体・文化の有り様が示されていたように感じました。それは決して簡単に抑圧したり同化させたりできるものではない、と。


そんな一家の元に、日本(の内地)から「満蒙文化交流青年会」なる怪しげな団体が訪れます(大店として文化・芸術活動のパトロンとしても役割を果たしているため)。団長以下団員3名、しかし真のリーダーは団員の中におり、何か秘密があることが示唆されます。その団長・団員の物言いや挙動はどこか変なところがあり、最初は観客の笑いを誘いますが、ある言葉と動作が示されることで(その意味がわかる人には)緊張が走ります。何か言葉を発したり動作を行った後に4人揃って「南無妙法蓮華経」と合掌。そして「宮沢賢治」という単語。彼らは芸術を普及するという文化交流青年会という姿とともに、法華経を信奉する国柱会の信者であり、宮沢賢治(そして石原莞爾)の思想を内に秘め、朝鮮半島および満州を巡察(そして後述するように煽動)する役目を負っていることが描写されます。
彼らは、一家に幼い頃から世話になっている朝鮮人の元書生のエリートに「朝鮮半島は今のままでよいと思いますか」と問いかける。「蒙古、満州、朝鮮、親日的な支那北部政権がそれぞれ独立して近代化し、日本と『五族共和』することで連邦制を敷いて、米英との最終戦争に備える」という思想を魅惑的に語る。日本人一家に育てられ日本が設立した帝国大学を卒業し現地支配の実務を担う官僚として働く朝鮮人青年には、後に支配の正当化にも使用されるこのイデオロギーがこのときどのように聞こえたのだろうか、と想像をかきたてられます。「なぜこの私にそのようなことを言うのですか」と当惑する朝鮮人青年に対し、彼らはメッセージの送り主が「キシ」という官僚であることを告げその場を去る・・・。


世界恐慌直前・満州事変前夜の当時は、日本の内地は行き詰まっており、朝鮮半島(の政治体制)はまだ若く希望があり、満州はより若く希望があるという認識が、登場する新世代の将来への希望(と暗雲)が軽やかさと危うさとともに示されていました。
そして「植民地支配」を巡る二つの言説の―相手の近代化のために役に立ったとか感謝する者も多かったとか他の植民地支配よりマシだったと過去を正当化したがる言説と、相手は虐げられた被害者であり相手に塗炭の苦しみを与えてきたと国家を告発したがる言説との―不毛な二項対立を越えて、国が国を人が人を支配するとはどういうことだったのかということが、どこか虚しさと滑稽さを交えつつ、僕らの日常からそう遠くない延長線上に有り得るものとして見事に表現されていたように思いました。

KawakitaのBookmark(2007/01/29-2/4)

最近買った本

東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか
 成城トランスカレッジid:seijotcp:20070130:p2)にてchikiさんが紹介されていて大変面白そうだったので、東浩紀氏・北田暁大氏の『東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム』を購入、即読了いたしました。東京およびその周辺の街の開発の経緯やライフスタイルから「街」とは何を体現しており、社会において「多様性」を護持・保持するということはどういう意味をもつのかということが考察されていたように思います。自分の住んだ街・住む街について語りたくなること必定の大変興味深い一冊です。
あと仲正昌樹氏による『集中講義!日本の現代思想ポストモダンとは何だったのか』も購入し読了(2/10)。日本の戦後の思想史の「マルクス主義」から「構造主義ポスト構造主義」を経て「現代思想」までのつながり、およびそれらの思想が海外と日本でどのように受容のされ方が異なったのか、そして「現代思想」以降の現状はどうなっているのかということが極めて明瞭にしかもわかりやすく書かれています。大学生の方はこれを読んでおくと「変な寄り道」をしなくて済む可能性が高いと思われます(「寄り道」もそれなりに重要だと思いますが)。
この2冊はその近辺の分野に興味のある人にとっては大変面白いと思います。

映画『不都合な真実』鑑賞

kwkt2007-02-01

普段毎月1日の映画の日に意識して映画を観に行くことは少ないのですが、観に行こうと思っていたら月末だったので日時調整して映画『不都合な真実』を見てきました。TOHOシネマズ川崎で鑑賞。デイヴィス・グッゲンハイム監督。


元副大統領でこれまで環境問題に取り組んできたアル・ゴア氏の環境問題啓蒙のための公開講義の内容とその問題に取り組むきっかけとなった彼の半生・経験が描かれたドキュメンタリーとなってました。メッセージがかなりストレートで、普通に観れば普通に地球温暖化問題がヤバいと思える内容となってました。


環境問題プロパーの方々やその筋に詳しい方々からは、観てみるべきだけれど問題も多い、との指摘をちらほら聞きますが、とりあえず温暖化している傾向とそれを対処しなければならないという問題意識はより広く共有されるのではないでしょうか。ゴア氏がプレゼンしている個々のケースや数字の違いを指摘してもあまり意味はない様に思いました。しかしこれは政治問題としても考えられているわけで、昨年末にこちらもドキュメンタリーである映画『ダーウィンの悪夢』を鑑賞しエントリーを書いた際にid:demianさんからコメントをいただいたように*1、ある種政治的な(いやすべての)ドキュメンタリーでは「何が表現されているか」とともに「何が表現されていないか」が問題なのだろうなぁ、と幾分かは心に留めて観ることも必要だろうと思った次第。


さて僕がこの映画でちょっと馴染めなかったのが、ゴア氏が環境問題について講義している会場の雰囲気。おそらくゴア氏を支持する人々の集会で講義が行われているのですが、ゴア氏がいわゆる「ウィットに富んだジョーク」を言うと会場で大爆笑。地球の気温を上昇させるCO2を悪玉にしたてた単純戯画化されたアニメの使用。「これはわれわれアメリカ国民の危機でありわれわれの手でなんとかしなければならない」といったメッセージを聴衆に訴える手法は、映画『アトミック・カフェ』を思い出させました。主張されているテーマは異なりますが、冷戦時代の核兵器もテロも環境問題も何かが同じかもしれないとも思った作品でした。