大塚英志『「おたくの」精神史 一九八〇年代論』を読む

「おたく」の精神史 一九八〇年代論
いつだったか購入して積読のままだった大塚英志の『「おたくの」精神史 一九八〇年代論』を1〜2週間くらい前から電車移動中に少しずつ読んでいる。従姉妹が読んで面白かったとメールが来て、積読状態から再度手を伸ばして読み始めたのがきっかけ。
内容は80年代のさまざまなトピックを用いて「現実」と「虚構」のリアリティの80年代における変遷が述べられている。もちろん紋切り型の「現実と虚構の区別がつかなくなってきた」というものではない。大塚氏がここで表現しようとしているのは、80年代において(そして現在において)何が「現実」としてリアリティが感じられ、何が「虚構」としてリアリティが感じられているか(何が「現実」で何が「虚構」かではない)、ということの変遷。ニューアカロリコンまんが、フェミニズム黒木香糸井重里、新人類、宮崎勤岡田有希子、都市伝説、UWF・・・と本の帯に単語があるのだけど、それらを含めた80年代的なものが人々にどういう受け止め方をされ、その感受性が現在にどう繋がっているのかを解説している。そういう意味で大塚氏の言葉を借りるなら本書は「『現在』の読者に届けられる」。読み終えたら感想を書く、のかなぁ。
amazon.co.jp:『「おたく」の精神史 一九八〇年代論

一九七二―「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」
従姉妹にはお返しに昨年読んだ、当事の雑誌記事の内容から戦後において1972年(前後)の前と後に大きな違いを見出している、坪内雄三の『一九七二―「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」』を紹介した。
amazon.co.jp:『一九七二―「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」

この手の本に関して昔はよかった的な感性で書かれているといった批判があるようだけど、僕の読んだ限り両者とも現在を理解するために、その時は感知することができなかった事後的に見出される「現在の感受性の萌芽」を当事を題材に探しているように思える。「回顧」ではなく、あくまで主眼は「現在」にあるように思われる。だから興味をもって僕は読んでいるのだろうと思う。