あえて虚数の話――人間の自由な思考

宮台氏・仲正氏のトークセッションの発言録を公開して(現在は発言概要メモとして縮小公開)、「数学屋のメガネ」の秀さんから面白い感想をトラックバックで頂いているので、僕もその話に乗ってみようと思う。

話題となっているのは宮台氏の以下の発言。

この社会が成り立つために制度が成り立つためにどんなウソが必要なのか考えるのが社会科学者の社会学者の本分・本義。私の議論に対して、そんな話はウソである、憲法意思など存在しない、自己決定しうる自己など存在しない。その通り。仲正さんの仰るとおり制度論はすっぱり切れるように見えるが、実はウソ。なんだウソか、じゃあなんでもありだ!と思う奴はバカ。だから「あえて」。あえてとは実存の志を言っているだけではなく、社会科学者が「あえて」と言うときは、制度が成り立つための必要なウソのことを言っている。
これに対して秀さんは以下のような感想を述べられている。
この「ウソ」についての考え方は、数学における「虚数」の考え方に似ていると僕は感じた。「虚数」はウソの数である。自ら「虚」と名乗っている。しかし、この「虚数」は数学の理論にはなくてはならないウソである。この「虚数」がないと、数学では数としての完結がなくなり完全性を失う。
完結した世界の構築のために、あえてウソの数を設定し、理論の一貫性を持たせるのである。そうでなければ、理論をいろいろな場合に分けて、いくつもの数学的世界を作らなければならなくなってくる。統一した場というものがなくなってしまうのである。
社会学のことは詳しく分からないが、もしも宮台氏が語るようなウソがなくなってしまったら、特殊な現実に影響された様々な世界を、別々にとらえて分析しなければならなくなるのではないだろうか。ウソがあるからこそ、それらを統一して理論的に扱うことが出来るのではないだろうか。


数学的思考の本質 数理の窓から世界を見る
さてようやくここからが本題。今年の1月に出版された河田直樹氏の著作で『数学的思考の本質』というものがあって、この本は数学と近代社会の関係を上手く説明してくれている。「数学的思考の本質とは世界を数学化する魂」であると(江川達也氏っぽいですが(笑)その発言の正当性(?)もわかります)。

この著作の中の複素数が取り上げられている部分で、「複素多様体」の研究で日本人として初めてフィールズ賞を受賞した小平邦彦氏の「数学の不思議」という講演の内容が紹介されている。小平氏はこの講演の中で複素数は人間の自由な思考の創造物である、と述べている。この小平氏の発言を踏まえて複素数の意味がこのように紹介されている。

「虚」は英語の「imaginary」の訳で、これは「想像上の」とか「実在しない」とかそんな意味である。
 こういう言い方は極端すぎるかもしれないが、虚数鄯はパヴィア生まれの数学者カルダノ(1501-1576)によって、「恣意(勝手気ままな考え)」的に、自由にでっち上げられたものだ。この点は十分注意しておきたい。小平氏が上の話で強調しているのは、
  複素数は人間の自由な思考の創造物
ということだが、あえて補足すれば、それは人工的(恣意的)に作られたものであり、したがって、
  複素数は人間の発明品(=作り物、人工物)
にほかならないというのだ。
 注意したいのは、「自由な思考が、作り物あるいは人工物を作り出す」という点で、「自由と人工」が直結しているところである。私たち日本人の場合、とかく「自由と自然」が結びつきやすいが、いまの場合、そうではないのだ。
どうですか。ちょっと目が覚める気がしませんか。日本では近代化のために国家に「家」概念を適用し「自然」なものと考えるように社会を設計した。いや「社会」なる言葉さえも「人為」の関係であるため、「自然」な人間関係としての「世間」なるものが存在する。日本には制度を人為的に運用して自由を獲得するという概念は希薄で、「自由」とは制度の軛から逃れて「自然」に振舞うことである、という感覚が強いというのはこの認識の違いが原因なのかもしれない。

さらに面白いことに、この人為の為せる業・数学は世界の現象・物質の仕組みを解明するために物理学やその他諸科学に大いに貢献してきたわけだけど、その仕組みを解明すればするほど神の御業に近づくと言う。どういうことか再度引用。

しかし、こうした数学者の「作り物(=発明品)」がやがて自然現象を説明する科学の道具として生き生きと活躍し始める。「虚数物語」はもはや単なるフィクションと考えるわけにはいかなくなる。すなわち、
  [虚数] = [自然界の背後に隠された実在の物(=発明品)]
ということになるのだ。
 そして、「虚数」のこの「意味の変容」こそが、小平武彦が語ろうとする「数学の不思議」にほかならない。すなわち、人間の自由精神から恣意的に生まれた「人工のもの(=発明されたもの)」が、実は「自然のもの(=発見されたもの)」であったという不思議である。
 ・・・(中略)・・・
 自然界の背後には厳然と「数学的現象」が存在し、自然界そのものが究極的なところで「数学的」なのだ。そして、この信仰こそ「nature」という印欧語に秘められていたものだった。
 ・・・(中略)・・・
 「自然」と「人工(数と論理)」とは、ヨーロッパ文化においては「絶対者(=神)」を介して連続している。そしてヨーロッパ文化にとって「数学的現象」とは、いわば「絶対者(=神)の自然現象」にほかならなかったのである。
これを読んでどう感じるだろうか。『数学的思考の本質』の中では「自然」「人工」の概念を日本では「自然=不合理」「人工=合理(付け加えれば「便利」)」と認識しているのに対して、ヨーロッパでは「自然=合理」「人工=合理」(付け加えればどちらも「真理」)と認識しているという、決定的な認識の違いがあるとのこと。社会的な面で言えば、ヨーロッパでは社会を数学的に(=人工的に)改良できる、それが神の御業に近づくことになる、という認識が存在しうるのだ。僕らは近代社会の発想の根底にこのような認識があることを知っておいてもいい。「自然」「人工」なるものの言葉の意味を僕らは本当に理解できているのだろうか。「人為」が我々に「自由」をもらたらしていることを本当に理解できているだろうか。そんなことを思わせられる一冊だった。

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・『数学的思考の本質』 河田 直樹
・『世界を解く数学』 河田 直樹

数学屋のメガネ:「宮台真司・仲正昌樹トークセッション〜「共同体」と「自己決定」〜発言」感想 7


【旧サイトでいただいたトラックバック
2004/05/17 数学のとらえ方:http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/624038.html (数学屋のメガネ)

「あえて虚数の話――人間の自由な思考」 の文章に触発されて、数学について考えてみた。 僕にとって数学とは抽象の世界であり、抽象というのは、ある部分的な属性を抽き出すために、他の属性を捨てるという「捨象」の問題でもあると考えていた。 現実とのつな