社会秩序の「合意モデル」と「信頼モデル」

書店で無料配布されているダイヤモンド社の広報誌「経(Kei)」の宮台真司の連載「M式社会学入門(公式ホームページでも閲覧可能)」で社会システム理論の基礎が講義されているのだけど、その中で示されている二つの社会観の違いが興味深いので紹介。

社会学の基本的な問いとして「近代の(自由な)主体間において社会秩序はいかにして可能になるのか」というものがある。私も自由、あなたも自由、あの人も自由、みんな自由(ここで言う「自由」とはどのような行為の選択肢もとることができるという意味。)、そこで社会秩序はどのようにして形成されるのか、ということ。その問題に対して、宮台氏は社会学の歴史を紐解いて「合意モデル」と「信頼モデル」が存在すると解説する。

社会学者・パーソンズは秩序の源泉として「価値の共有」を提唱。人々が初めから価値を共有しているので、他人の振舞いが一定の期待値内に収まるのだと。しかしこの「合意モデル」は「秩序のありそうもなさを、価値合意のありそうもなさへと転送しただけで、問題の先送りをしている」との批判にさらされる。

それに対して社会学者・ルーマンは「(事前合意による)偶発性の消去」から「偶発性のやり過ごし」という「信頼モデル」を提唱する。「偶発性」を超簡単に説明すると、他者の行為が(他者から見たら自分の行為も)「他でもありえたということ」。いかなる行為の選択肢もとられうる可能性が消去されることはなく潜在的には存在する、にもかかわらず秩序が成り立っているとする。

その解説は以下のものがわかりやすい。

■社会秩序の「合意モデル」は、人々が合意した規範や価値の内側でだけ行為が展開する場合、「秩序がある」と見做し、「信頼モデル」は、合意の有無と無関係になされる信頼(制度的予期)が破られない範囲内で行為が展開する場合、「秩序がある」と見做します。
■社会統合を「予期の統合」だとする社会システム理論の見解は必ずしも非伝統的ではありません。近代社会学の祖デュルケーム(xxxx-xxxx)は『自殺論』で、自殺や犯罪の存在は、「社会病理」という呼称にもかかわらず、それ自体病理でも何でもないと喝破します。
■なぜか。それは例えば、犯罪なら犯罪に対応した司法制度があるからです。社会は一定割合の犯罪が起こるという前提の下で動いているということです。司法制度が円滑に作動しているという信頼が破られるのでない限り、犯罪は通念に反して通常的な事態なのです。
■これは免役の比喩で語れます。私たちは体内への異物の侵入を以て有機体秩序の紊乱だとは考えません。有機体には異物が侵入するのは通常的な事態で、免役システムがそれを通常的に処理します。免役システムのキャパを超えるまでは秩序は微動だにしていません。
僕らが安心して知らない人がたくさんいる道を歩けるのは、見ず知らずの他人たちと殴り合わないという「価値を共有」しているからではなく、殴られたら警察を呼び出せるし、警察は訴えれば多分動くだろうし、最終的には司法制度で制裁を加えられる、ということを僕も見知らぬ他人もそのことをわきまえていると思える(社会学的には「予期」と言う)から、そもそも他人を殴るなんていう発想自体が浮かばないし、そんな発想が浮かんだとしても実際に実行に移すのに敷居が高くなる。つまり殴られる可能性を合意で消去するのではなく、殴られる可能性を限りなく小さくしているから社会秩序が成り立っているというのが「信頼モデル」の考え方。

そして注目したいのが以下の文章。

■合意モデルと信頼モデルの対立は、「良き社会」をめぐる対立をも派生します。合意モデルは、人々が規範や価値に合意しているのが「良き社会」だと考えます。信頼モデルは、より低負荷に、わざわざ合意せずとも信頼を維持できるのが「良き社会」だと考えます。
■一般化して言えば、共同体的な社会であるほど、社会統合を「行為の統合」だと見做し、行為が予期外れを来すこと自体に激烈に反応しがちです。他方、脱共同体的な社会であるほど、予期外れ云々より、どんな制度的予期を信頼できるかに専ら拘るようになります。
・・・(中略)・・・
■どちらがいいかは文化的ないし個人的な価値観の問題です。しかし、社会統合を「行為の統合」と見做す共同体的な価値観と、見知らぬ者との多種多様なコミュニケーションを前提とする近代の複雑な社会システムとが、両立しがたいこともまた理論的事実なのです。
イラクの人質事件での日本での「自己責任」「迷惑」論の展開は、日本が実態は「合意モデル」の社会であることを連想させるのに十分だった。それは犯罪などの逸脱行動よりも「チャレンジ」を例に考えると顕在化するように思う。

「合意モデル」の社会はチャレンジ(による失敗)をあまり奨励しない社会だ。国家の退避勧告には従うのが当然なのに(みながそう思うのに)それに従わなかったので批判する。合意・模範(と思っているようなもの)から逸脱する行動が存在することを「秩序がある」とは思わないからだ。そこで何かしら公的な費用が使われると、不要な出費と考える。

「信頼モデル」の社会ではチャレンジを奨励する社会だ。「信頼モデル」ではチャレンジ(の失敗)から派生する予期せぬ事態が起こったときにしっかり対処が為されるためシステムが動くことに焦点が当てられる。そのことが人々に多様なコミュニケーションへ踏み出す動機付けを与えるからだ。また必ずしも価値共有は必要としないので、他人が自分の納得いかないチャレンジをするかもしれないが、自分も他人に理解されないかもしれないチャレンジをしうるかもしれないとう想像力を与える。個別の行為内容を問うのではなく、制度が設定している信頼が維持される範囲において「秩序がある」と考える。だからイラク人質事件における政府高官・政治家の「自己責任」「迷惑」発言は、仮に政府は動いてもバッシングが展開される可能性を秘めるということが自由な行為を萎縮させてしまうという意味でで問題だろう。制度を運営している人間がそのような発言をすることは、人々を多様なコミュニケーションへと動機付けるための制度的「信頼」を損ないかねない。

政府が存在する理由は、人々のコミュニケーションを合意=価値共有(ここでは日本的道徳・模範)の内に収めることではなく、人々が多様なコミュニケーションに踏み出すことができる前提を供給することにある。各人の行為が非難されるとすれば、他者を傷つけたり人権を侵害する場合、そして人々の制度的信頼の共通前提を崩すような場合であろう。これらが(国内においてすら)見知らぬ・理解できない「他者」たちとコミュニケーションをとっていくために必要な認識なのだと思う。

MIYADAI.com:
連載第八回 社会秩序の合意モデルと信頼モデル
連載第十二回 社会統合とは何か?

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