映画『息子のまなざし』鑑賞

いやはや凄い映画を見てしまった。ネオリベさんたち必見だと思う。
僕が見る前に知っていた情報は、中高年の男性が少年を物陰から見つめるシーン。もうひとつは中高年男性がその少年を「何もしないから」と追いかけるシーン。そして映画のポスターには「人を受け入れることから、愛が生まれる。」と書いてある。見る前にはとんでもない想像を膨らましかねない(笑)。


映画の冒頭は職業訓練校に入校してきた少年を主人公の中高年男性(職業訓練校の指導員)が覗くシーンから始まる。う〜む。なんだこれは、と思いつつ始まる。しかしこれはもちろん中高年が少年を若さゆえに欲する同性愛という映画ではない。それは映画の途中で明らかになる事実でわかる。主人公の中高年男性は少年に関心を持たずに入られない状況であることがわかる。互いを理解し合うでもなく、何かを主張するでもなく、ただいっしょにいること、何かをいっしょに行うこと、それだけのことがこれほどまでにスゴイこととは。この映画は音楽は一切ないし、セリフも最小限。しかし映画で表現したいことは痛いほどよくわかる、いや、「わかる」なんて言葉ではなく、感じされられる。
謬見が混じることを恐れずに言えば、「日本人である」ということのひとつの性質の現れとして「事実性の優位」が挙げられる。悪い意味で言えば、主義主張、自分の考えがなく既成事実にそのまま流されていくことを指す。また「去る者は日々に疎し」「遠くの親戚より近くの他人」という言葉が端的に表すように、日々いっしょに何かをするということが決定的な意味を持つ。つまり理念・観念で「日本人」は繋がらない。よい意味では日々何かをいっしょにやった人間は(たとえ理解できないとしても)、その事実性の積み重ねから自分の仲間だとみなす傾向がある、ということだ。すくなくとも毎日何かをいっしょにやっているという事実が積み重なっていれば「日本人」はその人を排除しない。
映画『息子のまなざし』ではまさに事実性の積み重ねによる共生の可能性を描いている。「考える」のではなく「感じる」という言葉が似つかわしいし、「納得」ではなく「事実」という言葉が似つかわしい。ラストシーンが忘れられない。ただ中高年男性と少年が一緒に木材をトラックに積む作業を行う姿が坦々と流れる。だがこの体験は強烈だ。


監督:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ
2002年、ベルギー=フランス
カンヌ国際映画祭 主演男優賞・エキュメニック賞特別賞