村上春樹『1973年のピンボール』読書中

カイシャの行き帰りの電車の中で、禁断の村上春樹の作品を読み始めてしまって、かれこれ3日目。この「1973年のピンボール」(1980)は、以前とあるサイトを開設していた(いまはもうない)モーヲタにして銀行勤務のとんがれっさんの日記で紹介されていたときに知って、いつか読もうと思っていた作品。本作品においては、ズシンとくる衝撃はまだないが、文体が、比喩が、登場人物の独白が、実存がボディーブローのように効いてくる。心地よい鬱まであともうすぐだ(笑)。

ピンボール研究書「ボーナス・ライト」の序文はこのように語っている。
「あなたがピンボール・マシーンから得るものはほとんど何もない。数値に置き換えられたプライドだけだ。失うものは実にいっぱいある。歴代大統領の銅像が全部建てられるくらいの銅貨と(もっともあなたにリチャード・M・ニクソン銅像を建てる気があればのことだが)、取り返すことのできぬ貴重な時間だ。
 あなたがピンボール・マシーンの前で孤独な消耗を続けているあいだに、あるものはプルーストを読みつづけているかもしれない。またあるものはドライヴ・イン・シアターでガール・フレンドと『勇気ある追跡』を眺めながらヘビー・ペッティングに励んでいるかもしれない。そして彼らは時代を洞察する作家となり、あるいは幸せな夫婦となるかもしれない。
 しかしピンボール・マシーンはあなたを何処にも連れて行きはしない。リプレイ(再試合)のランプを灯すだけだ。リプレイ、リプレイ、リプレイ・・・・・・、まるでピンボール・ゲームそのものがある永劫性を目指しているようにさえ思える。
 永劫性については我々は多くを知らぬ。しかしその影を推し測ることはできる。
 ピンボールの目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。エゴの拡大にではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。
 もしあなたが自己表現やエゴの拡大や分析を目指せば、あなたは反則ランプによって容赦なき報復を受けるだろう。
 よきゲームを祈る(ハヴ・ア・ナイス・ゲーム)。」