蓮實重彦とことん日本映画を語るVOL.18『日本の幽霊 Part2 ―魑魅魍魎から遠く離れて―』参加

青山ブックセンターのABC BOOKFES 2007のイベントとして青山ブックセンターの上にある東京ウィメンズホールで開催された蓮實重彦氏による恒例イベント「蓮實重彦とことん日本映画を語る」のVOL.18『日本の幽霊 Part2』に行ってきました。
今回のテーマは前回に引き続いて「日本の幽霊」。前回が映画が伝統的に見えないはずの幽霊をどのように表象してきたかという話だったのに対して、今回は現代の日本映画の監督たちがその伝統との関係においてどのように幽霊を扱っているか、という話だったように思います。

導入として、映画の中でお化け屋敷が描写されている久松静児監督『氷柱の美女』が紹介され、作中の登場人物たちはお化け屋敷の幽霊に怖がるのですが作品を観ている方はそれがまったく怖くないこと、だから幽霊は「人間が演じてこそ」の恐怖ということが「化け猫」の例で紹介されました。また狐とともに人間を化かす「狸」が描かれてきた例が紹介されました。狸は人間を化かしても禍々しい結果を及ぼさないのですが、大曽根辰夫監督『七変化狸御殿』ではフランキー堺・狸がジャズを演奏し美空ひばり・狸が音楽にあわせてタイツ姿で意味不明な唄を歌うというすごいことになっていましたw それに拮抗しうるアナーキーな最近の狸物の例として鈴木清順監督『オペレッタ狸御殿』が紹介されました。

そして最近のJホラーと呼ばれる作品群が登場。前回の話でもあった画面のフレーム外から人間の「手」が出てくる恐怖、そして「子供」が何かしら関係しそこでテーマとして母親の「母性」が描かれていることが紹介されました。

また日本映画では作中の登場人物たちが幽霊ではなく「他界の気配」を感じる場面が多くあるとのことで、その「気配」がどのように表現されてきたかが紹介されました。黒沢清監督の場合は、風で木々やカーテンがそよぎ場に大気が流れることで何かの出現/消滅の「気配」が表現されているそうです。

また在るべき場所に居らず居ないはずの場所に居るという「存在」と「非在」が描写されている例が紹介されました。今そこに居た人が不意に居なくなる例、ある時間を経て人が居なくなる例、死んでいるはずの人間が普通に登場してそこに居る例などが様々な作品で紹介されました。

最近の日本映画では、他界とこちら側、存在と非在の間で人々が揺れ動くシーンが多いそうです。(錯視とは違った観点で)自分に見えていることが他人にも見えているのか、同じものを見ているようで見ていない/見ることができないのではないかという問題。そこから派生して、映画を観る体験も「原理的には」「民主的に」「平等に」同じものを観ることができるはずでいていかに異なったものしか観ることができないか、「皆が平等に可視的であることはありえない」という、ある意味「幽霊」よりもよっぽど恐ろしい映画を観る体験における「存在と非在」「可視と不可視」の問題が提示されました。


最後に楊徳昌(エドワード・ヤン)監督が2007年6月に亡くなられた追悼として、監督の作品ではなく監督が出演されている侯孝賢監督『冬冬の夏休み』が紹介されました。エドワード・ヤン監督の作品をまだ1本も観ていない人は反省して観る機会があれば観るようにとの仰せがありました。

追記:2007-08-24

今回のイベントの詳細なレポはこちらへ。