萱野稔人氏×北田暁大氏トークセッション「権力と正義」 参加
※要注:以下のものは、私が見聞きして印象に残ったことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。
両者の国家論のスタンスについて
- 北田氏は『責任と正義』で「正義・公正(Justice)」の観点から国家の問題を論じた。
- 萱野氏は『国家とはなにか』で「暴力」の観点から国家論を展開。
- 簡単に国家はこうであるべきという「べき論」に行くのではなく、国家の機能分析の議論を展開している。
- 紀伊国屋書店 ブックレビュー [社会・思想]『国家とはなにか』萱野稔人
「ありそうでなかった独自の国家論」北田暁大
http://www.kinokuniya.co.jp/05f/d_01/back36/no34/book34/book03_34.html
両者が重なり合う論点
- 国家を考える上で「物理的な暴力」「身も蓋もない暴力」を理論構成に組み込んでいくと問題意識。
- 両者とも再配分型のリベラルな国家のあり方を肯定するが、理論構成上はロバート・ノージックを重視。
- 国家のしたたかさを真剣に受け止める。
「暴力」から考える国家
- 国家とは一定の領土の中で合法的な暴力を独占している、国家だけが戦争・逮捕・刑罰等の物理的強制力を用いる権限を持っている、という定義。
- 暴力が行使される前は交渉の余地はあったとしても、いったん発動されてしまった暴力に対しては抑止する手段が最終的にそれを上回る暴力しかないとすると、好むと好まざるとに関わらず暴力の問題に直面する。
- 暴力を暴力で抑止するという基本的な運動の上に国家が成立っているとするならば(実際それで成立っている)、はたして簡単に「国家を超える」ことが我々にできるのか。
- 国家が集中的に独占・管理することでより暴力が組織化されて計算可能な方がよいか、個々人・各組織でバラバラに管理されていて暴力が予期不可能な方がよいか。明らかに通常は前者のほうがよい。
- ホッブスの「自然状態」はフィクションだという物言いがあるが、それは現に事実上国家が独占的に暴力を管理している状態だから発生していないだけで、フィクションではなく実際に起こりえること。
- 「国家を超える」のが思想的に正しくて国家の中に留まっているのは思想的に遅れているというところに価値基準を立ててしまうと、おそらくダメ。
国家による承認・アイデンティティの問題について
国家と再分配について
- 福祉国家とは税金を取り社会保障として再分配すること。最近は財政難・社会意識の変化などで機能していないという現状がある。
- 国家がより福祉政策の方を実施するようになるには
- 国家は国家にとって得策である限りにおいて福祉政策を行った。戦後の経済復興期において、共産・社会主義圏に対抗する意味もあり福祉政策を行い富を再配分し、国民がこれまで購入できなかった新たな生活必需品を購入し、企業が儲かりさらに税金が入りというサイクルが回っていた。冷戦構造が崩壊しそのサイクルの有効性がなくなってきた時点で政策転換が起こる。
- 萱野氏は国家を暴力の集積装置としてとらえており、事後的に国家は正統性を調達するだけで必ずしも福祉政策・公共事業が帰結されるわけではない、でも方法はどうあれ再配分を国家は必然的に行いうる、という考えのように見える。
- 国家を単なる暴力の集積装置のみではなく公的な正統性を維持していかなければならないものとしてみることで、福祉政策的なものを正統化できないか。
- 北田氏は国家は暴力の集積装置でありつつも、国家はその正統性を主張し生成し続けていかなければならないという点が、国民の最低限の生活保障(social minimum)を担保するための福祉政策・公共事業の一定の根拠になりうるのではないかという点を論じていたように思える。
- 国家は国家にとって得策である限りにおいて福祉政策を行った。戦後の経済復興期において、共産・社会主義圏に対抗する意味もあり福祉政策を行い富を再配分し、国民がこれまで購入できなかった新たな生活必需品を購入し、企業が儲かりさらに税金が入りというサイクルが回っていた。冷戦構造が崩壊しそのサイクルの有効性がなくなってきた時点で政策転換が起こる。
憲法第9条と萱野国家論について
- 日本国憲法第9条の非戦/非武装という考え方は「暴力」を基本とする萱野国家論とどう接合されるのか。
- 憲法第9条はあくまで対外的な規定。日本という国家の領土内での公的な暴力の独占という意味からすれば特に矛盾しない。
- 非戦・非武装の規定をもっている国家は日本とコスタリカ。
- 第二次大戦後、連合国は旧枢軸国がまた暴走しないようその国の軍事力を管理しようとした。
- 「戦後レジームからの脱却」とは軍事力を管理される側からまた管理する側・軍事を公共事業にできる側になりたいということ。
- 軍需産業はテクノロジーが集約され不況の影響も受けずに需要を生み出すので、資本主義の中でカネのなる産業であり再分配としても機能しうる。
- 非戦・非武装は一定のコンテクストの中で成立しているものであり、国際社会の中では「合法的な暴力の独占」という事態は変わらない。
会場に東浩紀氏がおられ、以下の所見・応答がなされていました。
- 本日の議論では国家が「軍事・治安上の保障」「経済的・福祉的な保障」「感情・承認の保障」を満たすことが一体となって話が進んでいた。
- これら3つを果たして国家だけで満たすべきなのかという観点から、個々テーマでどうやって保障していくかという方向で議論を展開したほうが有効ではないか。
- その3つが要請されるようになったのは近代国民国家になってから。なぜ3つがまとめて国家に要請されるようになったのかを歴史的に考えることが重要かもしれない。
※要注:以上のものは、私が見聞きして印象に残ったことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。
- 『アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界』 ロバート・ノージック
- 『市民政府論』 ジョン・ロック
本トークセッションについては参加されたid:syakekanさんが簡潔にまとめられてます。
- 鮭缶のアラスカ鍋日記(貧乏風)
- 2007-07-27 [講演会]萱野稔人・北田暁大、権力と正義
http://d.hatena.ne.jp/syakekan/20070727#1185552621
- 2007-07-27 [講演会]萱野稔人・北田暁大、権力と正義
id:NEATさん情報提供。萱野氏が本トークセッションについて言及されているそうです。
- 萱野稔人「交差する領域」
- 第15回〈権利〉と国家と資本主義
http://kayano.yomone.jp/?p=8
- 第15回〈権利〉と国家と資本主義