『マルクスの使いみち』面白いです

マルクスの使いみち 僕の大学時代はすでに「マルクス」は必読書であることが遠い昔の時代でした。ですので、概論・解説書程度は読んで理解しているつもりであっても、実際どのような議論の積み重ねがあったのか、それらの議論の有効性と限界はどこにあるのか、ということはあまり勉強してこなかったように思います。
マルクスの使いみち』の第二章:搾取と不平等を読んでいますが面白いです。ローマーが搾取は完全競争状態でも発生し、搾取それ自体で悪いこと・不正なことだといえるのかという問題意識の下、利潤を上げたら必ず発生するのだから搾取を問題とするよりもむしろ不平等こそ問題だ、ということを80年代に言っているとのことです。
また興味深いのは、搾取(=余剰・利潤)がなければ資本主義は回らないのですが、これは労働者の自己所有権の侵害になるのではないかという主張があり、資本主義が自身を成り立たせている定理において自身を否定してしまうような現象が起こっているとのことです。後付けでこんなことを書くのは大変カッコ悪いのは承知の上で*1、実は今回「贈与の契機」関連のエントリー*2*3でその後展開できるのではないかと思っていたことがすでに以下の様に書かれていて個人的には感動でした。

第二に労働搾取に関する自己所有権的解釈は、資本主義的経済システムを支持するイデオロギーによって、資本主義それ自体がいわば自己批判させられることを意味します。資本主義的経済システムを支持するイデオロギーとして、われわれは、自己所有権思想――個人の身体の自由な処分権は本人自身のみにあるとする思想――と、その通俗化された形態としての「自己労働にもとづく所有」論をあげることができると思います。労働搾取の存在は「自己労働にもとづく所有」の崩壊を意味しますから、・・・(中略)・・・このシステムが「自己労働にもとづく所有」の特性をもたないことを確認できます。かくして、資本主義は自らを正当化するイデオロギーによって自己批判させられることになる、という結論になります。
・・・(中略)・・・
われわれは、労働者の労働の成果がすべて彼の自由になるか否か、という視点とは独立に分配的正義の基準を考えるべきであり、そうした基準はロールズ、ドゥウォーキン、センなどのリベラル左派の議論のように、労働成果の自己所有権を否定するような性質を有するべきであると、私自身も考えています。(『マルクスの使いみち』P131-133)

もちろんここで言われている「労働成果の自己所有権を否定」とは部分的なものではあると思います。
当たり前ではありますが、僕が思いつくようなことはすでに誰かが考えているわけで、議論の蓄積の歴史や教養の大切さを改めて感じさせられる次第です。
また「搾取」それ自体の問題もそれでも存在しうるとのことで議論が交わされており、僕などには大変学びの多い内容になっていると思います。その他の章はまだ未読なので、しっかり読んでみたいと思います。
ジュンク堂のサイトの本書紹介文*4には

本書の目的は、マルクス主義の資本主義批判の何らかの意義、正しさのあることを直観しながら、他方において知的体系としてのマルクス主義の正統性喪失に途方にくれている人々=人文系ヘタレ中流インテリのみなさんに対して、「正統派、新古典派の経済学は敵じゃない」と語りかけるところにあります。

とあり、「人文系ヘタレ中流インテリ」の世直し志向は実は正統派・古典派の経済学の中で問うことが可能であるのでは、ということが書かれているようにも思います。

*1:とある方々数名にはすでに申し上げていたのでご理解いただけると思うのですが

*2:http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20060225#p1

*3:http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20060315#p1

*4:http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0106531271