blog「「壁の中」から」さんへのお返事

blog「「壁の中」から」さんよりTBをいただいたのでご返答申し上げます。

「「壁の中」から」さんの●の章構成ごとに応答申し上げたいと思います。
●労働は贈与か?
●内田氏はつねに心理を問題にする
「不当に収奪されている」ことについては、以下について述べました。

それに対して、分業化が進んだ社会のライフスタイルでは「他人が必要なものを生産し、他人が生産したものを消費する」という様式が一般化します。つまり自分の労働力をまず他者が必要とするものを作ることに向けられ、その対価としての賃金という貨幣を得て、他人が生産したものを消費します。
時間も資源ですので、自分が自分のために使う労働時間を、他者の望むもののために使い、そこから得た貨幣を自分が望むもののために使う、というのはたとえ労働時間と貨幣の価値が等価だったとしても、時間が「オーバーアチーブメント」になります。
「雇用」という関係は、まず労働力を提供しなければ維持できません。まずは自分の必要ではなく他者の必要のために時間・労力を使い、迂回としての労働を経た後、賃金としての貨幣を得、自分の必要を満たすことができるのです。ここで大事なのは自分の必要を満たすために「労働力がすべて自家消費がなされない(=結果的にオーバーアチーブメントが発生する)」という構造です。

労働条件については、改善された方がよいと思いますが、それが解決したとしても根本的に等価交換の観点から見たら「不当に収奪されている」と申し上げています。仮に不当に収奪される問題が解決したとしても(例えば共産主義社会は「労働者たち」は不当に収奪されていないのでしょ?)、オーバーアチーブメントは発生し「不当に収奪されている」という「実感」があると例示されていますよね。つまりいわゆる「資本主義の搾取」問題を心理的側面に矮小化されるという観点も必要ですが、それが解決してもなお構造的発生すると申し上げております。
自分が「他者への贈与」の主体になること、とは「与える」主体になるという意味です。
「与える」とは「贈与の主体として与える」こととともに「交換の主体として与える」ことも意味します。僕は「非等価交換の主体となる」ことを贈与的と申し上げております。


●労働はつねにオーバーアチーブメントか? について
労働は建前上、労働と対価の等価交換、実体は労働が生み出した価値と対価の非等価交換であると申し上げております。

労働がオーバーアチーブメントであるということは、賃労働に限って言えば、雇用者、資本の側が儲けている、利益を得ているということに他なりません。しかし、雇用者は常に儲けを得ることができるわけではありません。これは常識に属します。
・・・(中略)・・・
たとえば、客の入らない飲食店を考えればすぐわかるはずです。商売には採算分岐点というものがあり、それを下回る業績しかあげられない場合、従業員に支払う給料は雇用者にとっては明らかに損失です。その損失を上回る利益を上げてもらわねばならないのが企業です。つまり、こう言いかえるのが正しい。
「儲かっている企業においては、労働はオーバーアチーブメント(働き過ぎ)であるが、儲からない企業においては労働はアンダーアチーブメント(もらいすぎ)である」

その通り。だから「労働」が「アンダーアチーブメント」になっている企業は(「労働」が「オーバーアチーブメント」になっていないから)続かない(=倒産する)。「労働はオーバーアチーブメント」とは「状態規定」ではなく「本質規定」なので何の問題もない。

また、kawakitaさんは本質規定と規範規定が違うことを主張し、規範規定でないから問題がないかのように仰いますが、この態度はきわめて問題の多い態度(犯罪的だとすら思います)であることに注意して頂きたい。このことは最後に繰り返しますが、とりあえず「サラリーマンの研究」を読めば分かるとおり、当該記事のなかでは、労働の本質規定をおこないつつ、卒業生らがそれを賞賛し、それに内田氏が同意しながら、「キリストの受難」と並べてみせることで、それが規範として機能するように語っています。自分は客観的に本質規定を学問的におこなっていると見せかけて、その言説全体として規範を設定する。これが内田氏の多用するレトリックのひとつであります。

「労働の本質規定」と「キリストの受難」の構造の相似形を述べ、元学生の観察は正しいと言っているだけで、それを行えと言っているわけではないので何の問題もないと思いますが。


●デタラメ

サラリーマンは自らが「不当に収奪されている」という実感を盾に、(あいつら)にオレを承認しろと迫るわけです。これは対価を求めていると言うことです。不当に収奪されている、ということは、当然得られるべき対価が得られていない、つまり対価の支払いを求めているということになります。これのどこが「贈与」なのですか? それが金銭的な価値でないだけで、不当に支払われていない対価を「承認」で支払え、といっているわけです。
つまり、サラリーマン諸氏は「不快という貨幣」の債権者なのです。内田氏の言うことに従うなら、労働者は「贈与」なんかしていません。支払われていない得られるべき対価に対して承認せよ、という交換を求めるわけですから、その承認が得られれば、労働はこの時点で完全な等価交換に変貌します。

●贈与をどう考えるか

まずもって、贈与は対価を求めない行為ではないということを確認しておきたいと思います。日本での贈答物が、基本的には返さなくてはならないものであることからも分かるとおり、儀礼として、贈与に対しては贈与で応えなければならないのです。これは、貨幣経済以前の社会においてはより強固な義務として観念されており、贈与に対する返礼を怠った場合、直ちに戦争状態に突入することにもなります。
・・・(中略)・・・
思うに、そのような社会では、交換そのものが目的であったのではないかと考えられます。交換することで人的な交流を保障し、名誉を誇示したり、敵対していないことを証明したりする。
人類学的な意味での「贈与」とはこの種の交換形態を意味しているようです。つまりこれもある意味では等価交換なのです。この見解に従うとすると、Gilさん、荒井さんの意見に衝突します。

このふたつの部分は、

  • 労働者は「承認」を求めており「贈与」ではないではないか
  • 贈与は対価を求めない行為ではない、返礼が期待されている

とのご指摘です。これを現実生活に適用すると、誰かに贈り物を持って行ったとき、お前は「ありがとう」という返答を期待しているからお前の行為は贈与ではない、お前が贈り物をするのは返礼されるのが前提だからそもそも交換目的であるまたはお前は慣習に従っているだけで贈り物をしようとしている気持ちなどない、と言っていることになります。これはどこか実感にそぐわない点があります。
これは「贈与」に見えないのは贈与の根本的パラドクスに由来します。
贈与としての贈与、返礼なき贈与を「純粋贈与」とすると、純粋な贈与行為は「これは贈与だ、私は誰かに与えるのだ」と意識したとたんに贈与でなくなります。贈与する当事者も贈与される当事者もそれが贈与であると気付いてはなりません。

  • 純粋贈与は、贈与行為を贈与行為として自覚してはならない
  • 相手の当事者もそれを贈与として気付いてはならない
  • 純粋贈与においては、返礼を期待しないだけではなく、贈与を贈与としてすら意識してはならない

しかし他方ではそれが贈与として実在するためには、自覚されなくてはなりません。贈与はこうしたパラドクスをかかえています。
贈与は自発的で自由な行為であるとみなされているますが、自発的であるとか自由であるというのは、贈与行為を贈与として自覚しているのだから、その瞬間にその行為は純粋贈与ではなくなります。
またご指摘の通り「自発的」行為は、自由意志に基づくかのうような「みかけ」をしていますが、古代・中世でも現代社会においても、慣習的な(規範的、道徳的)強制のもとにあります。自発性はみせかけであり、強制的にも「自発的」であるようにされているにすぎないともいえます。
しかしそれでも「贈与」は「自由意識で」「自発的で」「返礼を期待しない行為」です。贈与のメカニズムを以下のように考えられます。

  • 第一義:贈与は返礼を期待しない行為である
  • 第二義:贈与を行う者は返答や返礼を意識している行為である、また返礼が慣習的に強制されている
  • 第三義:贈与とは、贈与を行う者が返答や返礼を意識していても、あえて「自由に」「自発的に」返礼を期待しない行為であることになっている。

ということになります。だから例で挙げられたものは「贈与」または「贈与的」ということになります。


●労働概念の混乱
●本質規定は差別の口実

労働することは神を信じることや言語を用いることや親族を形成することと同じで、自己決定できるようなことがらではない。
労働するのが人間なのだ。
だから、労働しない人間は存在しない。
はたから労働しない人間のように見えたとしても、主観的には労働しているはずなのである。

この「労働しない人間は存在しない」という部分をなぜ問題化しないかとのご指摘ですが、

問われるままに「なぜ若者たちは学びから、労働から逃走するのか」という問題について考える。

とあるように「不快という貨幣」という文章で前提とされている「人間」は「働く/働かない」ということが選択できる人間を前提として語られています。「労働するのが人間なのだ。だから、労働しない人間は存在しない。」という文章の一部だけをとりだして、人間一般の本質規定ととるのはいかがなものでしょうか。そもそも労働の本質規定は労働することが選択として可能であることが前提です。ここで語られているのは、「労働しない(「働く/働かない」ということが選択できる)人間は存在しない」ということが労働の本質規定から導けるということです。
人間の本質規定は「労働すること」だけではないのは自明です。どんなに精緻に規定しても排除を生むのも当然です。なぜ労働の本質規定の問題が、人間の本質規定の問題に飛躍してしまうのでしょうか?そのように読まれるのはご自由ですが、そうではないという解釈を提示申し上げております。


●与太をまともに論じても無意味

しかし、繰り返し指摘したように内田氏はつねにデタラメを振りまいているのであって、まともに相手をするだけ労力の無駄かと思います。デタラメに本気で怒ってみても暖簾に腕押しでしょう。概念規定が根本的に混乱している内田氏の言説に依拠することはやめるべきだと思います。

「概念規定が根本的に混乱している」のであれば、「「コンスタティブ」な分析に耐えるものではない」と言うのであれば、批判論者の意見も根拠がないということにもなるのでお忘れなく。パフォーマティブ云々を言いたいのならば、可能な限りコンスタティブに読み取ってから批判すべきです。僕には労働の本質規定の記述を現代の労働規範・労働環境批判のロジックで批判しているように見えました。僕が正統な解釈者であるなどとは申しませんが、批判論者の方々のロジック(特に「人間的」の解釈)を見ていて、あまりにもコンスタティブな読みがなされてないと思ったため今回のエントリーを書いてみた次第です。簡単に「魂の労働擁護」とか「ネオリベ補完」とか言っていいのかということです。


以上です。