「松本被告の訴訟能力あり」と鑑定とのこと

東京高裁・須田賢裁判長は麻原被告の精神鑑定を依頼した精神科医・西山詮氏から「訴訟能力あり」との鑑定結果を受け取ったとのこと。


今年の1月22日に麻原裁判控訴審公開討論会で様々な方のお話を伺う機会がありました。

この討論会で以下のことが話されました。

  • 弁護士は麻原被告にすでに百数十回接見するも意思疎通を図れたことがない。
  • 弁護士・鑑定医ともに麻原氏が接見室を出入りする様子を見たことがない(自発的行動が出来ないので連れて来られているだけの可能性が高い)。
  • 拘置所の医師、検事も意思疎通が出来ないことをコメントで認めている。弁護人から依頼されて実際鑑定した3名(2006/01/22時点で3名、最終的に5名)の鑑定医も意思疎通がとれない。
  • 年始に弁護側から依頼を受け麻原被告に接見された野田正彰教授(精神科医)もそのときの様子について詳細なお話をされていましたが意思疎通はできなかった、現時点で訴訟能力はない、と仰っておりました。

しかし今回の裁判所の選定した鑑定医だと「訴訟能力あり」と鑑定されたわけです。
裁判所は

  • 2004年6月、「この裁判(控訴審)は2年で終わらせる」と弁護側に発言。
  • 2004年12月、東京高裁裁判官2名が書記官とともに被告人に面会しており、被告は裁判官の質問を理解している、との旨を弁護側に伝えている。
  • 2005年8月、精神鑑定を行う前から「訴訟能力を有するとの判断は揺るがない」との旨を弁護側に伝えている(東京高裁の鑑定医の選定が2005年9月)。

と最初から結論ありきと思われても仕方がない行動をとっております。通常の刑事事件1件でもスムーズに進行して判決まで2年程度かかるとされるものを、13件の事件の裁判を「2年で終わらせる」と発言。また特に裁判官が法廷以外で(弁護人の立会いすらなく)被告と面会することなど通常ありえないことです。

 鑑定は昨年9月、高裁の職権で始まった。高裁は一貫して、訴訟を前に進めることを重視。「迅速な裁判を」という被害者側や世論に歩調を合わせる形だ。04年12月には須田賢裁判長が自ら松本被告と異例の面会。「説明を理解できており、訴訟能力はある」と判断した。

裁判官は控訴趣意書の作成手続きを説明するために面会したとのことです。このようなことが裁判の手続き上問題であるとはまったく報道されていません。


早く結論を出すべきという世論と共に、裁判所が麻原被告を裁かない/裁けないという印象を与えてしまうことが国民の司法への信頼を低下させてしまうという憂慮があるのも理解できますが、国民にちゃんと現状を説明をして適正な手続で裁判を進行させることも信頼を得る方法だと思うのですが。


―――【追記1:2006/02/21】―――――――
以下のサイトに当エントリーをご紹介いただきました。この件について様々なBlogの意見が紹介されていますが、当然のことながらはやく結論をだすべきという意見、弁護側には批判的な意見が多いようです。


―――【追記2:2006/02/21】―――――――
大変参考になるエントリーを見つけました。

※ <オウム裁判>松本被告に訴訟能力ある 東京高裁に鑑定結果
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060220-00000029-mai-soci

 これは無茶でしょう。今の麻原に訴訟能力があるとはとても思えない。
 日本の刑法や刑訴法て、とにかく時代錯誤なせいで、たとえばこの事件の場合、事件を指揮命令した時点では、責任能力は問題無いんですよね。問題は現時点で裁判の継続に耐えうる精神状態にあるか否かで、実はこういうケースは全然珍しく無い。死刑に値するような重犯罪を犯して、裁判が進行する過程で、拘禁反応やら何やらで、裁判自体がまともに進行しないというケースは決して少なくない。
 犯行時点ではどうだったのか? というのと、起訴後の精神状態は分けて考えるべきだし、判決が出るに至るまで、まともな精神状態を維持させるというのは、それを拘束し続ける国の義務ですよ。それを国は怠っている。

訴訟能力について
本件の裁判が、起訴から三〇年もの長期に及んでいる直接の理由は、控訴審において、被告人が、刑事訴訟法三一四条一項にいう「心神喪失の状態」にあるとして、公判手続きが停止されていることである。いうまでもなく、ここでの「心神喪失」は、行為時における被告人の責任能力を評価する刑法三九条一項のそれとは区別された手続法上の概念であり、「被告人としての重要な利害を弁別し、それに従って相当な防御をすることのできる能力」(=訴訟能力)を欠く状態であると解されている(最決平成七年二月二八日刑集四九巻二号四八一頁)。訴訟能力を欠く場合は、(個々の訴訟行為ごとの有効・無効の判断を行うまでもなく)訴訟の続行じたいが許されない。

いくつかの判例では、耳が聞こえず、ことばを話せないなどの事情(および、それに伴う二次的な精神遅滞)により訴訟行為の内容を説明することが困難な場合について、訴訟能力があるといえるか否かが争われている。そこでは、訴訟能力については、被告人の弁別能力そのものだけではなく、訴訟関係人との問で防御のために必要なコミュニケーションをとれるか否かという視点からも考察すべきであるとの立場(*1)が支持されており、コミュニケーション能力(ないし意思伝達能力)が欠如する場合には、訴訟能力がないものとして、公判手続きが停止されている。なお、コミュニケーション能力という側面に注目する場合には、被告人単独での能力だけで判断するのではなく、弁護人などの支援や裁判所の後見的措置によって補充されうることもあろう(最判平成一〇年三月一二日刑集五二巻二号一七頁)。


(下線はkawakitaによる)

 素人考えからすれば、「なんであの弁護士たちは麻原なんかを弁護するんだろう」と思うかもしれない。しかし、もし彼らが弁護を引き受けず、誰も弁護人にならなければ裁判自体が成立しなくなってしまう。心情的には、誰も麻原を弁護したいなどとは思わないだろう。それを引き受けた弁護団は「日本の裁判制度を守る」という意識があったに違いないと想像する。

 そうであれば、弁護する以上はきっちり全力を挙げて弁護するのは当然のこと。
もしここで弁護側が手を抜いたりすると、後から信者たちから「公正な裁判ではなかった。麻原は国に殺された」という声が必ず出てくるはず。そうなったら日本の裁判制度に汚点を残すことになるとともに、社会の混乱を招く可能性もある。

 その意味からも、全力で弁護している弁護側に責められるべき点はないと思うのだが。むしろ、検察の攻めと裁判官の訴訟指揮の問題ではないかとも思える。