東京都、人権講座において上野教授の講師を拒否

id:seijotcpさんの仰るとおり東京都の姿勢が問われうる問題かと。
(いかに建前であろうとも)行政とは誰がどのような思想信条を持っていても都民である限り平等に行政サービスを提供する機関であり、特定の思想信条を持っているから公共の場から排除する/持つように善導する機関ではない、というのが本義なのではないの?*1
つまり「ジェンダーフリー」の言説が「男らしさや女らしさをすべて否定する意味」かどうかの解釈は都が判断するものではなくて、(講座が実施されていればそれを聞いた)個人がするものなのでは?

 東京都国分寺市が、都の委託で計画していた人権学習の講座で、上野千鶴子・東大大学院教授(社会学)を講師に招こうとしたところ、都教育庁が「ジェンダー・フリーに対する都の見解に合わない」と委託を拒否していたことが分かった。都は一昨年8月、「ジェンダー・フリー」の用語や概念を使わない方針を打ち出したが、上野教授は「私はむしろジェンダー・フリーの用語を使うことは避けている。都の委託拒否は見識不足だ」と批判している。

 都教育庁生涯学習スポーツ部は「上野さんは女性学の権威。講演で『ジェンダー・フリー』の言葉や概念に触れる可能性があり、都の委託事業に認められない」と説明する。また、一昨年8月、都教委は「(ジェンダー・フリーは)男らしさや女らしさをすべて否定する意味で用いられていることがある」として、「男女平等教育を推進する上で使用しないこと」との見解をまとめていた。

 一方、女性学とは社会や学問のあり方を女性の視点でとらえ直す研究分野だ。上野教授は「学問的な見地から、私は『ジェンダー・フリー』という言葉の使用は避けている。また『女性学の権威だから』という理由だとすれば、女性学を『偏った学問』と判定したことになり許せない」と憤る。

ただ、「ジェンフリじゃないなら呼んでもいいじゃないか」という指摘の方法はとるべきじゃないと個人的には思います。と言うのも、「講演で『ジェンダー・フリー』の言葉や概念に触れる可能性があり」「ジェンダー・フリーに対する都の見解に合わない」と都側が答えたのであれば、そのこと自体が問題を含んでいるようにも思うからです。つまり、パブリックな場所だからこそ多様な意見が交換されていいはずなのに、(今回は誤解だが)自治体や制度とは立場が違うという理由で断ったり、言葉の使用自体をも禁じるのはどうなのかという問題。こっちはこっちで議論する必要があると思う。

だから上野氏がジェンフリであるかないかが焦点になるよりは、別のところ、つまり都のパブリックに関する捉え方についての議論が起こるといいなと思う次第であります。

*1:あえてベタなことを申しているのはわかっておりますが