J-WAVE『Growing Reed』「僕達の将来は明るいですか?」から考える「コミュニケーション能力」が必要とされる社会

id:rna:20060107さん情報にて、岡田准一さんがナビゲーターのラジオ番組J-WAVEGrowing Reed』の1月8日の放送に宮台真司氏がゲストで登場し「僕達の将来は明るいですか?」のテーマでお話をされるとのことで、僕も番組を聴きました。番組の対談の最後に現代における「祭り」の機能を解説されていたのが印象的で、番組のサイトでサマリーが公開されているそうです*1

宮台「僕、祭りって凄く好きで日本全国行ってるんですよ。祭りって理屈じゃないじゃないですか。祭りを共にやることで共通の空間と時間を持てる。理屈で考えたら、合わなかったり敵かもしれないんだけど、同じ祭りをやったってことで繋がっていけるんですよ。すると、自分『達』って感覚も出てきて、自分は一人じゃなくなっていくわけです」
岡田「人の繋がりっていうのが、今はもう薄くなっていってると…」
宮台「そうです。コミュニケーション下手でも誰でも参加できるのが祭りで、それに参加したってことで孤独じゃなくなるんですよ。逆にいうと、コミュニケーションの技術がないと『参加できない、関われない』というのが人間関係なんだとみんなが思い始めちゃうと、多くの人は切り捨てられてしまう。なので、僕が言いたいのは『コミュニケーションの技術がないと関われないのが人間関係なんだ』って思わないで欲しいんです。『祭りって、そうだろ』ってことですよ」

実は標記ラジオ番組を1月8日深夜(正確には1月9日)に聴いたあと、1月9日に有名サイト・sociologicさんで「空気の読める社会(2)」というエントリーが上梓され、僭越ながら最初にはてなブックマークさせていただきました。

読んでみて現状分析としては非常に的確で大変参考になります。そしてはてなブックマークででも一部の方がコメントされているとおり*2、そうまでしてコミュニケーションしなければならないのか・そこまで高度化したコミュニケーションが要求される社会で生活することははたして幸せなのか、といった疑問も感じました。
sociologicさんは、個人の価値判断というよりは現状はこうなっているとう説明を重視されていて、そのような社会の善し悪しを論じることに対しては抑制的です*3

相手の表情の変化を読み取って「好き」「嫌い」を言い分けろと教えているハウツー本を見かけたことがある。ここまで来るとかなり極端ではあるが、相手に好感を持って貰うために、自分の意見すら曲げて相手の期待に沿い、楽しませることも必要であるらしいのが、今の「空気の読める社会」なのである。

社会の流動化や心理主義化により即時性や感情を重視する要素が加わったのが現代の「空気」である。近年、コミュニケーション力の低下が指摘されているが、学校、ビジネス、恋愛など様々な場において、要求されているコミュニケーション自体が高度化していることが、相対的なコミュニケーション力の低下として見えていると言えるかもしれない。


実際生活していて各々の現実の場面では「空気の読める社会(2)」に書かれていることがある程度要求されていると僕も感じますし、個人ではその現実をある程度は対処しなければならないことも理解できますが、そのような「(高度な)コミュニケーションを通じて何かを達成し続けなければならない社会」は本当に幸せなのかということは一考に値するのではないかと思っています。


昨年末に僕が聞いた宮台氏と内藤朝雄氏のトークでも、「祭り」や「人と繋がりをもてる(生育)環境」の構築について、「生態学的設計」という言葉でお話されていました。

「このような感情を持て」「道徳的になれ」というような「ある価値観に合意せよ」という言説は現代においては解決策としては無効であるばかり抑圧にすらなりえます。それよりも再帰的に生活世界の空洞化を埋めることで、社会に多元的な価値を内包しつつも感受性の幅がある偏差に収まる(=前提を当てに出来る)人間が育つように「生態学的な設計」をすべきだと。

印象深かったのは、宮台氏が援助交際の女子高生を調査されていたときに女子高生言葉というジャーゴンを使用するのは共通前提を当てに出来ない場所でありそこで同じノリを維持するために表層的な反復を繰り返す過剰同調が生じるということから、こらからの社会を考えていくときに「コミュニケーションを通じて何かをするという期待値を下げること」「アーキテクチャを通じたコミュニケーションを活性化・編成すること」が重要であると仰っていました。

現在の日本を多い尽くしていると思われるコミュニケーションで達成すべきことの期待値の高さ、コミュニケーション・スキル信仰、「○○力」の氾濫はまさに共通前提が崩壊しているがゆえの不安であり、同調すべき指標・対象として現れてくるものであると思います。だから長期的な解決策ではあってもアーキテクチャの設計を通じて(多元的であるが脱社会的ではない)共通前提が当てにできるように、人々が不安でオタオタしなくてすむようにしていくべきだという論理には非常に納得できました。

話題を合わせるために日経新聞を読み*4、コミュニケーション能力や「人間力」なるものを高めるためにビジネス書や自己啓発書を読み、日々の実生活の中でもコミュニケーションによる達成が求められることは、社会から振り落とされたくない不安から(過激に言ってしまえば、あさましき)行動をとる人々と、社会に実りのなさを感じ社会から撤退する人々を量産してしまうのではないかと思います。


コミュニケーションでの達成が必要な領域・分野があることは否定いたしません。そしてそれが他の社会生活一般の領域にも影響していきコミュニケーションで達成することへの要求が高度になる傾向があるのも確かなのかもしれません。その流れは現在は止めようがないのかもしれませんが、別のオルタナティブな、上記「祭り」と等価な機能のある、人々が高度な適用を求められる「不安」から動く社会ではなく、ある程度他者を当てにでき「自らの意欲」から行動できる社会が求められる*5のではないかと思います。「自らの意欲・内発性(から行動すること)こそが最も人を高貴な存在とする」という言説が「不安」を生み出す言説となり空回りしないようにするために。

*1:松浦さんから直々にご連絡いただきました。

*2:http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www5.big.or.jp/~seraph/mt/000137.html

*3:よい意味で言ってます。

*4:日経新聞自体に恨みはございません(笑)

*5:このような物言い自体もそれに適応することの「不安」を惹起しかねませんが・・・