橋本治『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』読了

乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない先日大阪に着いたとき本屋で行き先を確認するために地図を探していたついでに目にとまり購入。今朝電車の中で読了。集英社新書の橋本氏のシリーズ第3弾にして完結編らしい(第1弾『「わからない」という方法』、第2弾『上司は思いつきでものを言う』)。
内容は現代社会における「勝ち組・負け組」の解釈のされ方や「経済」とは何なのか*1世襲制度はなぜいとも簡単に崩壊したのか、といったことについての橋本氏の独自の文体での考察。毎回のことではあるけれど、橋本氏の書には読者をすっきりさせる結論はない。読んだ後にすべては読者に委ねられる。
経済活動における商品の購入動機は「必要」から「欲望*2」へ、「欲望が経済活動を作る」段階から「経済活動が欲望を作る」段階へと推移した中で(「必要」はすでに満たされてしまった状態の中で)、最後の方に書かれてある、我々にとって「我慢」とは何だったのかについての考察が面白かった。

「我慢とは、貧しさから来ているものである」と考えてしまえば、「我慢が不必要になるのが、豊かないい時代である」ということにもなりましょう。そして、誘惑に弱い、「いるのかいらないのか分からないが、自分はそれを“ほしい”と思う」を公然とする愚か者を野放しにする、アホらしい未来を作ってしまうのです。だから「我慢とは、現状に抗する力である」という考え方が必要で・・・(P201)

「我慢とは、現状に抗する力である」の主体は、「我慢をする我」であり「我々」です。・・・(中略)・・・「現状が攻めて来ても、我々は主体的にこれに抗することが出来る」という考え方が、「“我慢”という現状に抗する力」という表現にはあるのです。(P202)

「“我慢”ってなんだったんだ?そもそも、なんで“我慢”がいやだったんだ?」と考えることは、ちっとも無駄なことではないでしょう。そのことは十分に、「この現実をなんとかする」につながることだと、私なんかは思いますが。(P206-207)

束縛がない(=「我慢」しなくてすむ)ことをもって自由となす態度(消極的自由)と、意思することが欲望やノイズに妨げられず(=「我慢」することで)行えることをもって自由となす態度(積極的自由)の違い、そして後者の必要性を説いているように思える。
「我慢が不必要な豊かないい時代」に育てられ、まさに「誘惑に弱い、『いるのかいらないのか分からないが、自分はそれを“ほしい”と思う』を公然と」してしまいがちな僕などは正直ガツンと一発やられたような気分になっております・・・。

*1:辞書的意味では「物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程、およびその中で営まれる社会的諸関係の総体」とのこと。

*2:いるかいらないかわからないけれど自分はそれを「ほしい」と思う