鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』読了

カーニヴァル化する社会発売日(5/20)前にblogで紹介しておきながら、自分で購入したのが先週の金曜日だった鈴木謙介氏の『カーニヴァル化する社会』を日曜日に読了。
その中で展開されている若者のある種の「宿命論」について、古谷実氏のマンガ『ヒミズ』と『シガテラ』を題材に、鈴木氏が自身のblogで語っているのだけれど、『カーニヴァル化する社会』に書かれていた「ハイテンションな自己啓発」という言葉に自分も当てはまる部分があるかもと思っていたところに、さらに追い討ちをかけるべく確証を抱かせてくれた。

だからこそマクベスは、「決まってるんだ」という再帰的な自己駆動原理によってしか、自身の振る舞いを決定できないのだ。外部的な参照先を欠いていること、自分で自分自身の「決めごと」を招来すること、それが、自己ならざる自己の呼び声、我に「宿命」を告げる声の正体である。

僕が『カーニヴァル化する社会』において、最終的に「宿命論」に拘ったのは、目指すべき彼岸の審級、自身の必然的な使命(神からの呼び声=calling)を告げる審級が欠如した後期近代において、人はもはや自身の駆動原理を宿命としてしか呼び出せないのではないかということ、そして、その「決めごと」は、自己に対する大量のプロファイリング情報の蓄積(データベース!)との相互審問の中で、いくらでも顕在化させられるということが、この本の主たる構造として念頭にあったからだ。

(強調下線部分はkawakitaによる)
世に数多ある様々なリスクが、他人や環境のせいというよりも、自分の選択の帰結であるとリスクが「個人化」して(されて)いく中で、外部(の超越的審級)から定められた宿命ではなく、自分で自分を駆動しその帰結を受け入れるための宿命(論)*1。僕もこのメカニズムで動いているところがあるような気がしてならない。

でも『カーニヴァル化する社会』がさらに面白いのは、実は上記引用部分で強調していない

その「決めごと」は、自己に対する大量のプロファイリング情報の蓄積(データベース!)との相互審問の中で、いくらでも顕在化させられる

という部分で、実存の問題と監視テクノロジー(というかデータベース化された社会)とが密接な関係にあるというところを論じているところで、これは新たな視座だと思う*2。そして監視テクノロジーの多くは国家権力が監視するという古典的なタイプのものではなく、民間のサービス(利便性)として受け入れられているという。
おそらくこれと関係していると思うのだけれど、一見政治的ではないように見えることの政治性という観点から『カーニヴァル化する社会』を紹介されているid:using_pleasureさんのエントリーも面白かったです。

*1:いわゆる「内発性」とどう違うのだろう?どう区別をつけられるのだろう?この駆動原理でも「自分の内から湧き上がってくる」ものとも思えるし。けっこうわからない。

*2:上記の駆動原理で沸きあがってくる「内発性のようなもの」「宿命(論)」はあるデータベースに登録された(想定された)範囲のものしか起こらないとも言えるのだろうか?