映画『パッチギ!』の矮小化解釈に反論する

どうも井筒和幸監督の映画『パッチギ!』を「自虐史観映画」だの「朝鮮人側寄り」だのとせせこましい矮小化した解釈しかできな人がいるようなので、その解釈に反論してみたい*1

ただし、本作で”感動”できるのは、朝鮮人か、朝鮮側の立場、言い分に感情移入できるお客さん限定だ。あなたがもし愛国的な日本人だった場合、この映画を見たが最後、「冗談じゃない!」と激怒して劇場を出てくる事になるだろう。
というのも、本作は基本的に自虐的歴史観というか、反日風味がたっぷりの映画だからだ。何しろこの映画のストーリーは、無知な日本人少年が朝鮮語を勉強し、彼らに溶け込むよう努力し、「祖先が起こした過去の犯罪的行為」とやらを彼らから知らされショックを受けながらも、それでも彼らとの友情を求める話なのだ。
そして、よくよく考えてみると、この映画では朝鮮人側が日本人の立場を思いやったり、歩み寄ってゆく様子がほとんど伺えない。日本人の主人公は彼らの立場を必死に理解しようとし、また歩み寄っているが、彼らの方は結局日本を認めてはいない
片方が一方的に譲歩したつきあいを友情関係だといわれても、私は同意しかねる。ケンカして友情らしきものが芽生える様子や、国籍を超えた愛などをそれらしく描いていても、しょせんは薄っぺらい奇麗事ではないか。劇中で語られる歴史認識にしても、彼らからの一方的な言い分をゴメンナサイと受け入れるのではなく、誤りはこちらからも指摘していかないと、相手のためにもならない。
まあ、この監督はこういう主張をしたいんだから、いち批評家である私が言っても始まらないが。お金を投資する人たちがいるかぎり(もしくは観客のニーズがある限り)、こうした映画は今後も作られていくのだろう。私としては、今のお客さんは、もはやこういう映画を求めていないと思っているのだが。
(強調部分もそのまま引用)


僕はこれにまったく同意しません。上記の文章を読んで思うに、映画評論をされているらしいがそもそも本当に映画を見て書いているのか疑わしく思えてくる。あるいは相当読解力に問題があるかどちらか。


(ここからネタばれ注意。観たあとに読んでください。)


映画のストーリーの主軸は、康介とキョンジャのラブストーリー。プラス周囲で起こる様々なことを描く群像劇。


主人公は一目ぼれという個人的動機から、相手を、相手の文化を理解しようとする。その行動が日本社会の行動の枠を超える。普通の日本人から見るとなんで康介がそんなことをするのか理解できない。普通の日本人は関心を持たないので「自分たち」と「相手側」の線引きを自明化してしまう。だからキョンジャは自文化に理解を示している、自分に好意を持ってくれている康介に心を開き始める。


キョンジャの周囲は、日本との歴史的関係(それが事実かどうかはとりあえず置く*2。当人たちの認識を重視。)から、康介の行動を理解しようとしない。各人の歴史認識が正しい/間違っているという議論をしているわけではない。本人がそう思っていることを映画は表現してる。だから沢尻エリカ扮するキョンジャは自分達に理解の態度を示してくれている人間を被害者意識から排除していいのかと問い返す行動にでる。
キョンジャはなぜ葬儀の場に主人公・康介が歌っている「イムジン河」が流れるラジオをつきつけるのか。「私たち」も彼に歩み寄るべきではないかと問うている。いつまでも線の自明性にこだわってどうする、と。自分達の歴史認識は確かに存在する。それを日本人と分かち合うことは難しいかもしれない。でも今自分たちの文化や慣習に理解を示してくれている、いっしょに歌を歌い酒を酌み交わした人間を排除するのはおかしいのではと問い返している。


すべては、少なくともどちらか一方が「こちらが相手を信用すれば相手もこちらを信用してくれる」と信じるところから始まる。これを信じるのは大変難しいことかもしれない。でも個人的な恋心が、それを達成せんがために、通常考えられない跳躍をみせる。それが「世界は、愛で変えられる」という意味。


当初は康介の行動を理解できなかった人たちも、一緒に飯を食い、酒を飲み、喜怒哀楽を共にすることで、歴史的な関係や人為的な線引きなど実は関係ないことに気づき始める(なぜアンソンたちは康介を「仲間」として認めたのか、葬儀の場になぜ康介への擁護者がいたのかを考えよう)。価値観の一致や前提共有が重要なのではない。共に同じ時間を過ごしたという事実性からの関係。そういう人の繋がり方もあるということを、感動的に提示している。


日本人は康介以外ほとんど理解を示していない。康介が泥酔して送り返される場面の康介の母親の態度が象徴。坂崎(オダギリジョー)のような日本人一般からすると「奇特な」「変な」人は例外的に康介の行動に理解を示してくれるが。


最後。キョンジャはなぜラジオの放送局の前まで康介を迎えに行くのか(なぜ「橋」を渡るシーンが挿入されているのか考えよう)。(自分のために)普通の日本人が越えてこないところまであえて越えてきた男の子に微笑みかけてあげるためではないか。


この映画はかわいそうな人たちがいるから同情して仲良くなりましょうというものでは、ない。
一方的に朝鮮人たちの歴史認識が正しいと主張する映画では、ない。
どっちの認識が正しくてどっちが譲歩したなどという映画では、ない。


歴史認識が違い、価値観が違い、通常理解しあえないと思っていた人たちが、それでもいっしょに時間や空間を共にすることで信頼が構築され、共生していけるかもしれないという可能性を描いた作品。忘却でも排除でもない、共生の可能性を示している。これは別に在日朝鮮人問題だけでなく、価値観や認識が一致しあえない者同士がどう共生していけるかという普遍的な問題。これほどタイムリーな問題設定はない。朝鮮人歴史認識に迎合した偏向映画などという矮小化されたフレームで見てどうする、と思う。

こちらの方々の感想もスバラシイのでどうぞ。

追記:2007-05-19

続編の映画『パッチギ! LOVE&PEACE』の感想を書きました。

*1:僕は大いに感動したと昨日のエントリーで書いてしまっているので割り引いて読んでいただいても結構です。

*2:強制連行だったか、自発的に来たのかなど