映画『座頭市』鑑賞

公開前にCMを見たとき、どうもあのタップダンスが気になった。主演の座頭市役のビートたけしの茶髪は異形の者を想起させるのでまだ理解可能としても、時代劇になぜタップダンスなのだ?ベネチア国際映画祭で受賞したことよりもこの疑問が僕を映画館に向かわせた。


映画館に入場して席で待っていると、僕のとなりにカップルが座った。特に側耳を立てているわけではなかったが会話が聞こえてきた。男性は「オレって時代劇で誰がいつ死ぬかけっこうわかるんだよね」なんてことをしたり顔で女性に話していたのだが、パンフレットを購入して食い入るように見た後、「なんでたけしの写真は目をつぶってんのかな?」と驚くべき質問をする。女性は「座頭市って目が見えないんでしょ?常識じゃん」と至って普通の回答。男性は「え〜、マジ?」と完全に知らなかった様子でその後沈黙した(笑)。

僕も主人公である市が盲者であることは「知っていた」が、この会話のお陰で市が盲者であることを「意識して」見ることができた。このことが後に大きな気付きをもたらすとはこの時は思いもしなかった。
映画冒頭、六平直政扮する悪役が切り殺されるためだけに出演(なんと贅沢な!)。殺陣の凄まじさを見せつけた後、たけし扮する座頭市が本編の舞台となるある村に入るシーンとなる。遠景で農民が畑を鍬で耕す姿が映し出される。場面のBGMにあわせて鍬で土を耕す音が「サクッ、サクッ」とテンポよく鳴る。農民の動きはコメディタッチで、BGMはのどかでひょうきんさすら帯びている。それにしても畑を耕す農民の鍬の音と場面のBGMのシンクロ状態は「鍬の音がBGMに合わせて」鳴っているのか?「BGMが鍬の音に合わせて」鳴っているのか?どちらか定かではない状態となり観客を戸惑わせる。そしてこのシーンはいささかくどいほどに長い。実はこのシーンは監督・北野武の宣言なのではないか?何を宣言しているのか?観客はスクリーンを見ながら鍬の効果音を聞いているので「音楽にあわせて農民が耕す鍬の音がシンクロして鳴っている」ように感じる。しかしこれはまさに目の見えている者の見方である。盲者の市からすれば鍬で土を耕す音のみが連続的に聞こえているはずである。だから「農民が耕す(姿が見える)から鍬の音が聞こえる」のではなく「鍬の音が聞こえるから農民が耕している像が浮かぶ」のである。主人公・座頭市は音と匂い(と気配)によって世界の象が結ばれる。劇中で市は「耳と鼻はいいんだ」という主旨の発言をする。映画というメディアでは匂いは共有できなくとも、音は観客と共有できる。このシーンのBGMと鍬の音の交錯による戸惑によって「この映画は盲者である市の感じる世界を描いている」と監督は宣言しているのであり、観客に「動作が見えているから音がする」という発想から「音がするから像が結ばれる」という観点へのリフレーミングを要求しているのである。そこに気づくとこの作品は実はとても味わい深い構成になっていることに気づかされる。
商人の扇屋(石倉三郎)とヤクザの銀蔵(岸部一徳)が仕切る宿場町に、盲目の按摩であり居合の達人でもある座頭市ビートたけし)と、病弱の妻(夏川結衣)を治す薬を買うために用心棒の口を求めていた服部源之助(浅野忠信)、そして親殺しの敵討ちのため旅から旅を続けている芸者おきぬ(大家由祐子)とおせい(橘大五郎)が訪れる。市はおうめ(大楠道代)や新吉(ガダルカナル・タカ)やおきぬ・おせい姉妹に出会い、宿場町の騒ぎに巻き込まれて(首を突っ込んで)ゆくことになる。
扇屋と銀蔵は実は芸者姉妹の親殺しの敵であり、裏には黒幕がいる。その黒幕を観客はすぐに気づくことができる。なぜなら黒幕は後姿や網笠姿で登場し顔は見えないが「声」は聞こえるからである。「声」から黒幕が見えてくるのである。
浅野忠信扮する服部源之助は、元藩士で剣の達人として認められていたが、藩主の御前試合で浪人に負けてしまう。服部はそれまでの自分の地位や武芸の意味を問い直させられることとなる。その後自分を打ちのめした浪人を見つけ出すも、病に伏せて相手にならない状態となってしまっている。藩士の身分を捨てしまった服部は衝動のやり場もなく、用心棒となり真剣で人を斬りまくる。病の妻の薬のために、そしてまだ見ぬ真の命のやり取りをするために。そんな服部が宿場町にやってきて銀蔵一味の用心棒として雇われることとなる。座頭市と出会った服部は市との対決を熱望する。銀蔵一味、芸者姉妹、服部それぞれの思惑に向かって物語は進んでゆく。市と服部の対決は物語のひとつのクライマックスである。
座頭市が表向きの敵である扇屋と銀蔵一味を倒したのち、燃やされたおうめの家が再建される。この時もまた場面に流れるBGMと大工の作業の音がシンクロする。それは家が再建されるとともに宿場町の秩序も再建されることを示唆する。その夜、祭りが始まる、いや祭りの囃子が流れ始める。祭りが行われている最中、市はついに黒幕を追い詰める。そこで初めて市の目が開く。盲者の真実を見抜く目。それは現実を見ることはできないが真実を見抜く目である。市は「お前、目が見えるのか?」との問いに「普段目を瞑っている方が人の気持ちがわかるんだよ」と言い返す。「わかる」とはもちろん英語の動詞:see(=見える、わかる)である。市が黒幕を倒し宿場町に真の開放が訪れる。祭はハレとケにおける「ハレ」の場であり開放の場である。そこでは何が開放されるのか?まずそこに住まう人々の日常生活からの開放である。そして祭の踊りに映画のキャストが加わる。それはヤクザ一味からの開放を意味する。踊りが続く中で芸者姉妹の姿が一瞬、苦労していた思春期の姿に変化する。それは芸者姉妹の復讐という過去からの開放を意味する。そしてそれらを具現化している踊りは祭の囃子とともに「ある音」で表現される。音で多くの人間の踊りを表現するための手段、それがタップダンスだったのである。スケール感と躍動感にあふれるその囃子、踊り、タップを踏む音、すべてが見る者を圧倒的な迫力で魅了する。それは市が感じている開放の姿、そして映画を見ている観客とともに共有している「世界の像」なのである。
この作品はストーリーのわかりやすさ、たけし風のギャグの満載、殺陣のスピード感や激しさとともに、「座頭市」という話を使って市の「世界の受容」を表現しているのである。僕はそのことに戦慄し鳥肌が立った。凄い作品である。
この作品は杖を頼りに歩く音、さりげない所作の音、賽子の転がる音、刀の空気を裂く音、凶暴なまでの人を切る音、血飛沫の上がる音など、市の世界を構成する音に重点を置くため、完全に劇場用である。ビデオやDVDで見れば殺陣の派手な勧善懲悪の話となってしまうであろう(それらも出色の出来であると思うが)。ぜひ劇場での鑑賞をおすすめする。
以上が僕が作品を受容した感想である。


■追記(2003/09/18):
映画『座頭市』公式サイトにてサントラ担当の鈴木慶一氏の言葉が非常に興味深いので一部転載する。

この映画音楽はたくさんのテストを重ねた結果出来上がったものです。まずは、リズムを刻む、クワの音や、タップダンス、大工さんの音、水滴、三味線。いろんなリズムに同期した音楽を作る必要がありました。・・・(中略)・・・ 私はこんなに音数の少ない音楽や和風のメロディを、かつて作った事はありませんでした。それを引き出してくれたのは、北野監督のセンスです。作曲過程では、いったい何を作ったら、映像に合うんだろうと、悩む時も多々ありましたが、北野監督の、これがいいという言葉には、ほんと涙が出そうになりましたよ。やった、気に入ってくれたってね。