宮台真司氏主催「思想塾」公開イベント「ライフポリティクスの現在」参加

子どもが減って何が悪いか!感じない男
 三省堂書店神田本店で開催された宮台真司氏主催「思想塾」の第2回一般公開イベント「ライフポリティクスの現在」に行ってきました。論者は主催の宮台真司氏(社会学、社会システム論)、赤川学氏(歴史社会学ジェンダーセクシュアリティ論)、松沢呉一氏(性風俗研究家)、森岡正博氏(哲学・生命学・科学論)と宮台ゼミの院生の大河原麻衣氏(社会学セクシュアリティ論)、金田智之氏(社会学セクシュアリティ論)でした。


今回の公開イベントでは「ライフポリティクスの現在」と題され、個々人のライフスタイルの多様性と社会の関係を問い直す際に必要な議論の前提が語られたように思います。


※要注:以下のものは私が見聞きして印象に残ったことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。

基本的前提として

  • M.フーコーが生政治・生権力といった概念を用いた時代的背景・同時代性としてのマルクス主義における疎外論から物象化論への転換があった。
    • 疎外論
      「社会にとって良きこと」のためにないがしろになっている「個人にとって良きこと」を優先すべき、または「社会にとって良きこと」が「個人にとって良きこと」を最大化するようにすべき、とする考え方。
    • 物象化論(フーコー的問題設定):
      「社会にとって良きこと」よりも「個人にとって良きこと」を優先するとしても「個人にとって良きこと」は社会やシステムが反映した結果ではないのか、という考え方。
  • 社会・秩序を優先させる立場に対抗するために個人・自由を推奨する態度(疎外論)はあまり有効ではないと60年代に認識されそれ以降の議論は続いてきている。

個人的不快と社会的規制の関係

  • 外部からの規制に対して「自分が何をしようと勝手」という議論は以前から存在した。
    • 私的領域(個人が自由だと思っている領域)にも様々な社会的権力が働いていて個人の欲望が社会的に作られたものであったとしても「余計なお世話」と言える最後の地点があるのでは。
    • しかし他者の自由を侵害しない限り自己決定を擁護するという理念だけで社会を構想できるのか(現実的には必ずしもそうなっていない)は一考すべき。
  • 最近は「自分は不快である」と「社会的に禁止すべき」が直結する傾向にある。自分自身が不快であるから社会で規制してよい/すべきと、規制する側で個人の感覚を根拠とする傾向がある。

生命倫理からみえてくる自己決定/共同体主義

  • 人の生命・生死にテクノロジーが介入し操作できるようになってきたのが60〜80年代。当時はそれらはリベラルな生命倫理(自己決定・個人主義・価値の多様性)として受け止められた。
  • 90年代に入ってそれに対してマイノリティや保守派から疑問・異議が噴出。21世紀に入って保守派の生命倫理(生命尊重・家族主義・共同体主義・テクノロジー批判)が宗教的背景から登場。左翼系エコロジストも生命テクノロジーには反対。
  • リベラルに自己決定・価値の多様性を尊重するとしても功利主義的な立場からは距離をとるとすると、(アメリカの)保守派が唱える「生命の尊厳(我々には何か守るべき観念・アンタッチャブルなものがあるという考え)」論には少なからず正しいものが内在しているのでは。
  • 「生命の尊厳」論を重視し、「あなたが(あることを)自由に振舞うことで私が苦しい・つらい、だからやめてくれ」と主張することをどう評価するか。「不快だからダメ」という論理とどう違うのか。

感情の簒奪・利用について

  • 近代社会は契約ロジックと感情ロジックを分離し、前者を公(おおやけ)後者を私(わたくし)と呼んでいる。ヨーロッパでは感情を正統化する共通前提は生活世界、アメリカでは感情を正統化する共通前提は宗教的良心。
  • 昨今のポストモダン的・冷戦体制以降的な政治状況の基本はポピュリズムギリシャ時代には衆愚政治を招くとして忌避されていた政治スタイル。感情ロジックが前面化すると契約ロジックがスポイルされてしまうとされたが、デモクラティズムを背景に感情に訴えかける人気主義的ポピュリズムが盛り上がってきている。
  • 「感情」「人間的なるものを守れ」というのが疎外論・左翼的なものの真髄だが、この良心に基づく振舞を人気主義的に簒奪するポリティクスが明確に行われている。感情に訴えかけるポピュリズム的な政治が、人々の感情を尊重するからではなく全く別のロジック(他の特定利権)を尊重するがゆえに道具として利用され、公的な動員がますます効果的に機能する状況にある。

自由権に対する感受性の変容について

  • J.S.ミルの自由権の「他人の自由を侵害しない限り」というものを「他人に迷惑をかけない限り」と読み替えると問題の微妙さがわかる。
  • 近代の典型的リベラリズムでは、他人に感情的に迷惑をかけなれければではなく、他者の社会的に公認された人権を侵害しない限りは何をしても自由という風に規定されている。
  • 人権は契約のロジックに服すると解釈するというのが定番的な図式が、感情ロジックの迷惑が支配的に変わってしまった。
  • なぜなら契約のロジックがマイノリティや社会的弱者の包摂ならざる排除の原因になってしまっているから。その結果、他人を侵害しないというときの侵害の境界線が「感情的迷惑」にまで拡張してしまった。

ゾーニングの実施の背後にある意味変容について

  • 表現の自由を守るために表現規制をするのではなくゾーニングで対処するという方法があったが、昨今はゾーニングが契約のロジックではなく感情のロジックで使用されるようになってきた。
    • アダム・スミス的なコモンセンスを前提としての各人の幸福追求権を守るためにゾーニングを主張するのではなく、感情から直ちに短絡して不愉快なものを除くという意味のゾーニングが、実際政策に転化されるようになってきた。
    • 近代合理主義的なものとして想定されていたゾーニング社会的排除として機能し始めた。
  • ヨーロッパ的な発想をすれば、ゾーニングの権利はあるけれど行使をしない・過剰な行使は自分たちの首をしめることになるという意識がある。過剰なゾーニングは社会を見えなくしてしまい、見たいものしか見たくないという傾向に制度が追随するとすれば社会がどのように動いているのか見えなくなり反公共的。
  • 見たくないものでもしっかり目を据えて見るということができるような人間を育てなければならないというような懐の深さをもっているのが生活世界。日本の場合は「懐の深い」社会というものが何を意味するのかという社会的合意がない(なくなってしまったのか?)。
    • 「懐の深かった」社会においてその懐の深さゆえに本当の人権侵害が表にでなかったことも事実であろう。懐の深い社会で可能だったことが現代において不可能という視点も必要だが、ただ昔に戻ればよいというわけではない。
    • 規制はしないけれども我々が日常生活を協同して営んでいく上で知恵としてやるのはやめておくという別の次元での懐の深さゆえの自己規定を創出していくための触媒として学者・研究者が議論すべきではないか。

議論の前提における包摂と排除について

  • 契約のロジック、論理のコミュニケーションで議論しなければならないプラットフォームから排除される人間をなんとかして包摂する工夫が必要。感情的なコミュニケーションにおいて包摂するどのような方法があるのか。
  • 感情的にバッシングしている人たちはなぜその感情を抱くのかということを、同じ社会環境で生きる人間として、(方法論として)共感的に理解してみることが可能ではないか。政治的立場が違ったとしても、何らかの繋がりが見えてくるのではないか。
  • リベラルな言説を述べる人を「われわれ」として見ることができるかどうか。ある種の人たちから見ると「われわれ」と思えない人も少なからずいるだろう。議論のバックボーンが明らかになっていくと、バックボーンが違う人間は利害が違うからいっしょになれないという話に繋がっていく。
  • 最終的には数の議論になってしまうが、現在そこに欠けているのは「公共的なるものは何か」「どのような社会が望ましいのか」という議論。
  • ソーシャルデザインをする際の必須の感受性は全体性をどう参照するかということ。良き社会を考えるときに人間の感情をどう評価するか、感情の社会的正統性をどう考えるかということも、ソーシャルデザイン上でクリアしなければならない問題。
  • ソーシャルデザインを巡る問題は次回。

※要注:以上のものは私が見聞きして印象に残ったことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。

追記

はてなダイアリー:歩行と記憶のkuriyamakoujiさんに当エントリーご紹介をご紹介いただきましたのでTB送らせていただきます。他の方の感想・レポのTBも集まっていくかもしれません。

追記2:感想・レポリンク

映画『太陽』鑑賞

映画『太陽』オフィシャルブック 銀座シネパトスで公開中のアレクサンドル・ソクーロフ監督による映画『太陽』を観てきました。終戦間際のその後人間宣言をする現人神という存在を想像的に描写した作品。昭和天皇役はイッセー尾形氏。


「太陽」とは、万物に等しく恵みを与え何らの返礼も求めず、決してそれを直視することはできず、煌々と放つその光によってのみその存在を感じることができるもの。そのようなものとしての意識があるがゆえに日本人が想像的にフィクションとしても描くことができなかった題材。これまでの様々な作品の中で登場した「天皇」はいつも御簾の奥にいたり、重臣達に取り囲まれてその真意が伝わらなさゆえの苦悩の表情をしているものばかり。


多少大げさに言うならば、太陽を想像的であれ直視する、神を人間として直視するという「暴挙」(少なくとも御真意を間接表現から推測する権力メカニズムの渦中にある者にとってはそうでしょう)をソクーロフ監督は冒しました。ソクーロフ監督は当作品の構想段階で日本の識者に意見を求め、ほぼすべての人から反対され、ただ一人鈴木邦男氏のみに賛成されたといいます。一応「日本で公開不可能と思われた問題作」という評判もつきました。
しかし実際の受け手(日本の観客)としてはどうなのでしょうか。おそらく「暴挙」とまではほとんどの人は思っていないでしょう。でも題材の目新しさだけで人が集まっているのでもない、何かしらこの社会で働いているメカニズムの一端に触れる予感が映画館に人を向わせているのかもしれません。銀座シネパトスにいた観客層は明らかに普段よりも高齢の方が多数。多くの方が何かしら関心を持たれているようでした。


所々で登場する天皇の「あ、そっ」という諦念のような、傍観のような、無責任なような、場違いなような、しかし覚悟が伴っているような特徴的な応答。明らかに30代くらいまでの若い声での笑いが漏れていました。確かに場違いな感があってユーモアのようにも感じられましたが、僕はそこに「王たる者」の、神として祭り上げられた人間の悲しさと諦念と覚悟が垣間見えるように思えましたが。

KawakitaのBookmark(2006/08/07-08/13)