映画『太陽』鑑賞

映画『太陽』オフィシャルブック 銀座シネパトスで公開中のアレクサンドル・ソクーロフ監督による映画『太陽』を観てきました。終戦間際のその後人間宣言をする現人神という存在を想像的に描写した作品。昭和天皇役はイッセー尾形氏。


「太陽」とは、万物に等しく恵みを与え何らの返礼も求めず、決してそれを直視することはできず、煌々と放つその光によってのみその存在を感じることができるもの。そのようなものとしての意識があるがゆえに日本人が想像的にフィクションとしても描くことができなかった題材。これまでの様々な作品の中で登場した「天皇」はいつも御簾の奥にいたり、重臣達に取り囲まれてその真意が伝わらなさゆえの苦悩の表情をしているものばかり。


多少大げさに言うならば、太陽を想像的であれ直視する、神を人間として直視するという「暴挙」(少なくとも御真意を間接表現から推測する権力メカニズムの渦中にある者にとってはそうでしょう)をソクーロフ監督は冒しました。ソクーロフ監督は当作品の構想段階で日本の識者に意見を求め、ほぼすべての人から反対され、ただ一人鈴木邦男氏のみに賛成されたといいます。一応「日本で公開不可能と思われた問題作」という評判もつきました。
しかし実際の受け手(日本の観客)としてはどうなのでしょうか。おそらく「暴挙」とまではほとんどの人は思っていないでしょう。でも題材の目新しさだけで人が集まっているのでもない、何かしらこの社会で働いているメカニズムの一端に触れる予感が映画館に人を向わせているのかもしれません。銀座シネパトスにいた観客層は明らかに普段よりも高齢の方が多数。多くの方が何かしら関心を持たれているようでした。


所々で登場する天皇の「あ、そっ」という諦念のような、傍観のような、無責任なような、場違いなような、しかし覚悟が伴っているような特徴的な応答。明らかに30代くらいまでの若い声での笑いが漏れていました。確かに場違いな感があってユーモアのようにも感じられましたが、僕はそこに「王たる者」の、神として祭り上げられた人間の悲しさと諦念と覚悟が垣間見えるように思えましたが。