映画『ゆれる』鑑賞

すでに劇場公開は開始されていたものの観に行っていなかった映画『ゆれる』を渋谷シネ・アミューズで観てきました。ちなみに渋谷シネ・アミューズでは本日から公開開始で立見もでる超満員。監督は映画『蛇イチゴ』の西川美和監督。
蓮實重彦先生がトークで仰っておりましたが、映画を観て語る一つの方法として「一連の作品の中で偏執的に繰り返されている『同じもの』」を考えることがあるとのことですが、今回『ゆれる』を観ることで西川監督が繰り返し描くものが幾つか見えたように思います。ひとつは「(外面上はともかく内実は崩壊しかけている/している)家族」「そこに残りし者と出て行った者の対比」そして「森の中での当事者しか知らない出来事」。物語は「出て行った者の帰還」から始まり、登場人物が何かを失い何かを得て収束するという構造でした。
僕は最初の車から見える外の風景にすぐにやられてしまいました。あれこそ現代日本の地方の風景。舞台は山梨とのことでしたが、あの感じはおそらく日本全国の地方の風景でもあるでしょう。「そこ(=地方)」から出て行った者の視点から見る地方の風景。残る選択も出来たけれど出て行く選択をした自分。対比的に描かれる兄(香川照之)と弟(オダギリジョー)。その対照的に描かれ引き裂かれた心性・属性を持つキャラクターは、しかし西川監督のうちに同居するものなのではないかと感じました(西川監督は広島から東京に出て行った方だそうです)。そしてそれは地方出身者の僕のことでもあるからです。
橋を渡った先にあったのは例えば白い可憐な花。しかしそれはいずれ枯れ行くものでもある。だから橋は無理に渡るものではないのか。それでも橋は渡るものなのか。そもそもその先に何があるかわからない橋をなぜ渡るのか(渡ったのか)。橋を渡る前・渡った後から見える対岸の風景はそれぞれ違う。しかしもう戻りたくないのなら、戻る場所がないのならその先に何があろうとやはり橋は渡るしかないのかもしれない。
この映画はいろいろ痛いところを突いてくる作品でした。自分が見ないようにしていたものを見せられる感じ。実はそれも西川監督の作品で「繰り返されている『同じもの』」のひとつでした。