藤本一勇氏×高橋哲哉氏トークセッション「国家・市場・犠牲―民主主義の再生に向けて」参加

批判感覚の再生―ポストモダン保守の呪縛に抗して ジュンク堂池袋本店で行われた藤本一勇氏×高橋哲哉氏による『批判感覚の再生』出版記念トークセッション「国家・市場・犠牲―民主主義の再生に向けて」に行って来ました。藤本一勇氏の『批判感覚の再生』は読んだばかりだったので、大変興味深く話を聞くことができました。


※要注:以下のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。


高橋氏と藤本氏の最初の出会いは10年ほど前、藤本氏が院生のときに高橋氏のデリダ読解の授業に参加されていたそうです。その後、藤本氏はフランス・パリに留学しデリダの授業を受けられたそうです。デリダは当時のフランスのニュースやテレビ番組をネタにして哲学的な本論に導いていく授業を行っていたそうです*1


まず高橋氏から『批判感覚の再生』の紹介があり、本書は現代日本に必要な「批判」の形を示している書とのこと。ネオ・リベラリズム新自由主義)とネオ・コンサバティズム新保守主義)が、本質的にはひとつのものであることを様々な角度から論じているおり、この本の背後にデリダを学んだ人の哲学や視点がありそれを独自に今の日本を批判する言説に作り上げたように感じると仰っていました。
藤本氏は『批判感覚の再生』を執筆しているときはデリダの哲学を応用して日本を批判・分析しようとは思っていなかったそうなのですが、やっていくうちにデリダが80年代以降フランス社会およびグローバル化する世界に対してやっていたようなことと繋がっているように感じてきたとのこと。欧米では80年代以降グローバル化して、日本より一足先にネオリベラリズムの状態に変化しており、それに対してフランス・ポストモダンと呼ばれていたような人々がストレートに政治的な問題を議論をしていくという風にスタンスが変化したそうです。日本では遅れてネオリベラリズム化・グローバル化し、デリダらが当時やったような同じような文脈の中に我々は巻き込まれつつあって、日本の状況を分析したときにフランス・欧米の思想と繋がっていくという状況にあるのではないかと述べられてました。


『批判感覚の再生』には「デリダ」は単語として1回登場するだけだそうですが、お二人はデリダの着想や思考を紹介する形で本書の内容が語られていたように思います。

哲学・思想と社会批判が結びつくあり方はデリダだけが体現してるわけではなく、第二次世界大戦を引き起こした膨張した資本主義が必然的に国家主義を呼び込まざるを得なくなり多くの人々が動員され犠牲になったことに対する反省や批判からフランスの戦後知識人は出発しており、犠牲のロジックをどう批判するかということが主要課題だったそうです。しかし戦後復興の流れの中で高度経済成長を経て、上記の戦後の反省の流れは弱まって行き、資本主義を批判する社会主義共産主義は没落していったため、80年代にデリダがメッセージを発するときには現状のシステムを批判しようとするため右でもなく左でもなくという捩れたスタンスをとらざるえない状況であったそうです。


新自由主義や市場は発生させる社会コストを自身でまかないきれない部分があり、高まる社会コストに対して様々な社会装置でもって社会不安や不満を吸収して行くとのこと。

  • 一つは「国家」。不安要因を強引に抑え込もうと警察国家化・軍事国家化が要請される。
  • ソフトな観点からは「国民道徳」のようなものでメンタリティのレベルから国家や社会システムに対して異議申し立てをしないような形にもっていく。
  • また個人のレベルで連帯性を保つため社会的セーフティネットとして「宗教」が機能しうる。

資本主義の様々な矛盾をどうやって社会的に治安維持化・安定化させるかというときに「国家」「国民道徳」「宗教」というシステムがどの資本主義先進国にも共通して見られるあり方だそうです。日本の明治政府だけでなく、一般的に近代国家の成り立ちがそもそも緊急事態国家・非常事態国家という性格が強く外部との敵対関係が前提になっており、社会共同体のメンバーに対して死を課さなければならないという問題がどうしても出てくるので、「犠牲」を聖別化するための国民統合や国民動員の装置が活用されてきた歴史があるとのこと。また資本主義における経済グローバリズムでの市場原理は弱肉強食原理なので、必然的にある局面までいくと外部と軋轢を生み出してある種の戦争状態を生み出さざるを得ず、市場・資本主義と「戦争」というものが切っても切り離せない関係にあるということは踏まえておくべきで、これらが「国家」「市場」「犠牲」が繋がっていく論理であるとのことでした。


ここまでは『批判感覚の再生』でも挙げられている近代国民国家の歴史まで遡った問題点が提示されたのですが、高橋氏が藤本氏へ「国家や資本への欲望が生命原理そのものと不可分であるとするとそれを批判するということは可能なのか、相対化するような契機についてどう考えるか。」という趣旨の質問。それに抗するための着想としてデリダの考えていたことが高橋・藤本両氏から紹介されました*2

  • デリダの後期の議論では「無条件性」ということを言っていた。無条件の「贈与」「赦し」「歓待」。それは寛容思想とは違うレベルの絶対的な「贈与」「赦し」「歓待」であり、これは不可能な経験においてしか与えられない「不可能性の可能性」であると言っている。
  • そういう議論になぜデリダは向ったのか。宗教というものに彼が晩年こだわったことに関連するのではないか。メシアニズムと区別された「メシア的なもの」というものが出てくる。デリダ脱構築という思想は最終的にそこと絡んでくるのでは。
  • デリダが無条件性を言うときには「仮に〜〜というものがあるとすれば」ということを言う。我々は常に条件付けの中に囲い込まれていてそこから出ることができないことに但し書きをつける。
  • しかし「贈与」や「歓待」という概念を徹底的に考えていけば、「贈与」は交換であってはならないし、「歓待」は何らかの利害関心でもって相手を条件で区別するのではなく無条件に「歓待」を要求せざるを得ない。そこにデリダは内部から外に立つのではなくて、概念の内部に孕まれている条件付けから自己脱構築して行くような契機を見ているのではないか。
  • 宗教は神への信仰というものをそのような自己脱構築性というものを非常に濃縮した形で打ち出さざるを得ない。たとえ建前上であってもその建前が重要でそこにデリダは宗教の脱構築性を見ており、メシアニズムではない「メシア的なもの」と考えていたことではないか。

最近というかずっとまえから興味のあるテーマが最後に語られ、大変参考になりました。


※要注:以上のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。

*1:その原稿が書籍化されれば膨大な数になるだろうとのことです。

*2:「無条件性」ということに関しては『批判感覚の再生』でもとりあげられています。