内田樹氏のエントリー「不快という貨幣」関連の言説は「俗流若者論」か?

0.前置き

内田樹氏の運営するBlog「内田樹の研究室」のエントリー「不快という貨幣」について僕の解釈した内容をエントリーに書いていたら、Blog「祭りの戦士」を運営されているaraikenさんより反対の立場をとられた考察をトラックバックしていただきました。先日もとある方から「なんでウチダなんか擁護するんですか」とツッコまれたばかりなのですが、応答してみたいと思います。

内田樹の研究室」のエントリー「不快という貨幣」の内容を再度簡単にまとめますと、

  • 「等価交換」しか受け付けないという「功利的発想」が浸透した結果、「若者」は自ら受けた苦役・苦痛という「負の貨幣」の貯金に対して、「債権」の即座の支払いを求めるように振舞うようになり、表向きに見ると「学び」や「労働」を拒否しているように見えるのではないか

という仮説。
それについて僕のエントリーでは、

  • 「等価交換」の価値観は多かれ少なかれ、老いも若きも、どんな社会的立場であれ、ある程度内面化しているものであり、現代の社会環境への適応形態が表面的に異なって見えるだけではないか、
  • 「若者」を理解不能なものとして排除するのではなく、自分たちを「まとも」だと思っている人たちの側に包摂しているようにも読めないか

と述べました。
araikenさんの考えは、以下で詳しく紹介いたしますが、

  • 内田氏の言説は「若者に規範を提示しており、それに従っていないことを非難・断罪している」

といった感じでしょうか。araikenさんのBlogは以前より内田氏批判のエントリーを書かれているようで、僕もそれも存じ上げておりましたが、これより関連する以下の3つのエントリーに区切って議論してみたいと思います。

これらのエントリーを選んだ理由は「等価交換」および「贈与(的なこと)」がテーマであり、僕とaraikenさんの解釈の違いが明確に現れると思うからです。で、内田氏のエントリーに関する僕のエントリーに対してのaraikenさんのご主張をまとめると以下のようなものになるでしょうか。

1.araikenさんのご主張

まず内田氏の「サラリーマンの研究」「資本主義の黄昏」というエントリーより

  • 内田氏の「贈与」の概念はひどく混乱したもので、等価交換原理が働いているはずの資本主義社会において、「労働は贈与である」、などと言っている
  • 内田氏のような言い方で「贈与」を云々したのでは、資本主義の吝嗇な規範を強化してしまうという反資本主義を気取りつつも親ネオリベラリズムの言説になっている

という前提が導け、内田氏のエントリー「不快という貨幣」に書かれている「等価交換」原理が浸透している現象を述べた言説について、

  • 「対象は若者だけなわけがなくこの社会全体を示しているという意味で単純な「俗流若者論」には見えない」というkawakitaの意見には反対。
  • 内田氏の言説は「等価な交換を超えて自らの労働の産物の一部を、さらに究極的には自らの生命そのものを社会に差し出してこそ人間的だ……という思想が背後に潜んでいて、その地点に立ってビジネスライクで功利的な働かない若者たち……すなわち贈与することを忘れた若者たちを断罪するという構図」であり、滅私奉公のすすめへと転換し、若者バッシングになっている。

との主張をされているようです。冒頭3つの内田氏のエントリーに対してのaraikenさんは以下の様に記述されています。

 以前僕の書いたエントリーにGilさんがコメント欄で的確に内田先生の概念の混乱について説明してくれたことがあります。

 まず、前にも言いましたが、内田氏の致命的な間違いは、「労働は贈与である」、などと言っている点です。そもそもの定義からして、「贈与」は見返り(対価)を求めない行為であり、だからこそ、それは市場における「売買」や「取り引き」、「等価交換」に明確に対立します。一方、近代社会における「労働」は、労働者が自らの行為を「賃金」と交換し、あるいはその生産物である「商品」を市場において「売買」する行為です。ですから、「労働は贈与である」という言明は、「丸は四角い」という言明と同様に、端的に背理なのです。
・・・(中略)・・・
 内田氏は、この根本的に間違った認識から出発して、「日本のサラリーマンの減私奉公は贈与行為である」という、たわけた議論を引き出しているわけです。
 しかし、サラリーマン=労働者の行為が徹底的に功利主義と有用性の原理、そして市場における交換原理の上に成り立っていることを忘れてはなりません。労働者が「搾取」され、「騙し取られている」状況は、徹底して吝嗇な「資本の論理」に裏付けられています。
 一方、古代社会における自発的な「贈与」ないし「供犠」は、「功利性」や「有用性」の否定である限りにおいて、祝祭的・宗教的な意味を担っていました。それらの社会においてすでに、「贈与」は「労働」とは対極にあるものとして位置付けられていたわけです。
 もちろん、それらの社会でも、「供犠」や「贈与」は、神々や共同体の繁栄を祈る目的でなされていたことは確かです。

しかし、これは現代のサラリーマンが、巨大な機械の歯車のように<奴隷的・道具的>な存在であることを自ら受け入れ、時に死にいたるまで働きとおす、ということとは全く別の事柄です。
 もう何も付け加えることのない見事な解説だと思います。つまり内田先生はこの誤った人類学もどきの説明で働かない若者を非人間的だと吊るし上げてるわけです。これでは「人間は働き、搾取されるべきなんだ!」という資本主義システムの追認・強化の主張にしかなりません。資本主義の誕生こそが「贈与」を衰退させ、「交換」を前面に押し出してきたはずであるのに…です。
・・・(中略)・・・
 今まで何度も書いてきた通り、僕の想像では、学ばないそして働かない若者の存在が苛立たしくて仕方がない、というモチーフが先生の中にあって、それがこのような混乱した論理を用いた妄想となって爆発するのです。ですから僕は内田先生の言葉の中には他者(若者)を理解し、自分自身や自分のよって立つ現行システムを疑ってみようという知的な誠実さをひとかけらも感じることができません。

(強調部分はkawakitaによる)


つまり内田氏は現行体制の上に胡坐をかきながら「労働とは贈与である」「滅私奉公的に働け」と、人類学の意匠を装いつつ、現行体制を肯定し逸脱者を断罪し搾取される者を搾取されるがままを肯定する言説を吐き続けている、との認識をaraikenさんはされているようです。(私のaraikenさんの仰っている言説に対する認識が違っておりましたらご指摘いただけますと幸いです。)


ちなみに同様の認識は以下のblogでも表明されているようです。

2.kawakitaの前回のエントリーでの問題提起

僕は以前のエントリーで以下のように書きました。

 中野先生の「時間」というタームをヒントに考えるならば、「贈与」の契機が社会を成り立たせるために大切な要素であり、それは「交換」と違ったもう少し長いスパンでの(社会としての)「合理性」をもっているような気がします。それは個々にとっては「交換」が「合理的」であっても合成の誤謬となって長いスパンの(社会としての)「合理性」を失ってしまうようなイメージです。
 もちろん「贈与」では「労働」が滅私奉公の奨励や強制・抑圧に転化してしまうので、だからちゃんとした「交換」が必要であるわけですが、しかし現代の資本主義システム内で流通していて意識せずとも行われる「交換」の原理が個人の「労働」以外の行動まで徹底的に浸透しきって、社会を成り立たせるためのもうひとつの要素である「贈与」の契機が忘れられがちになり余裕のない(=無駄のない合理的な)社会になってきて若い人の行動に表面化してきている(もちろん上述のようにそれは「誰も」逃れられるものではない)というのが内田先生や中野先生のエントリーの認識ではないでしょうか。

(強調部分はkawakitaによる)


araikenさんはTBいただいたエントリーの中で

  • 「Kawakitaさんが今村さんたちの文章を引用して言いたいことはよくわかります。」
  • 「何らかの形で「贈与」を現行社会の中に取り戻したい、というKawakitaさんの想いは痛いほどわかります。おそらく僕たちの毎日の生活に広がる虚しさ、味気なさは、功利的な価値観の浸透によるものだというのは間違いありません。 」

と、僕の発言意図までわざわざ解釈し説明してくださっているのですが、残念ながら僕は「何らかの形で「贈与」を現行社会の中に取り戻したい」ということは正確には述べていません(今村先生の著作を引用したりと思いっきり誤解を与えかねない書き方をしいますし、まだよく練られておらず何が言いたいのかよくわからない文章だと思います。その点はお詫びします。)。
僕が書きたかったのは、「等価交換」の原理が浸透した社会における「贈与」の復活ではなく、「贈与」の契機*1の必要性でした。社会が成り立つためにはおそらく「贈与の契機」が必要であり、その「贈与の契機」の成立は合理的には説明できない、という問題意識です。

 労働もまたそのような「個人が自発的に演じうるものではない」ところの社会的行動のひとつである。
 だから、「仕事をする」というのもまた、「神に祈る」とか「言語を語る」とか「ひとを愛する」と同じように、「するか、しないか」を自己決定することも、「どうして」そのことをしなければならないのかの理由を合理的なことばで説明することも、私たちにはできない種類の営みなのである。

そこでこれより以下のことを記述していきたいと思います。

  • 4.「労働」と「贈与」は違うこと
  • 5.「労働」とは常にどんな水準であれオーバーアチーブメントであること
  • 6.「本質規定」と「規範」は違うこと、そして「人間的」とはどういう意味か

3.「贈与」と「労働」は違うこと

この章のタイトルは以下の文章から名づけました。

内田氏の致命的な間違いは、「労働は贈与である」、などと言っている点です。

「贈与」と「労働」は違う、そんなの当たり前じゃんと言われそうですが、まずここから確認いたしましょう。かなり単純ですが一般的な「贈与」「等価交換」「労働」を示した図を作ってみました。
【図1:「贈与」と「等価交換」と「労働」の違い】  (←クリックすると大きく表示されます)
ここでは以下のように定義してみようと思います。

  • 贈与・・・生み出した価値に対して、見返りを求めないので、得られる対価は0。
  • 等価交換・・・生み出した価値に対して、等価の対価を得ること。
  • 労働・・・生み出した価値に対して、得られる対価が低いこと。

あとで詳細に説明いたしますが、とりあえず「労働」の定義は「生み出した価値に対して、得られる対価が低いこと」とします。とすると「労働」=「贈与」とみなすのはおかしいことになります。ここまでは当たり前です。
さてでは内田氏は「労働は贈与である」と定義しているでしょうか。冒頭紹介したエントリーからそれらしきところを引用してみましょう。

 面白かったのが、一月勤めてみて世の「サラリーマン」というのものがいかによく働くか知って仰天したという驚きの報告であった。
 佳話である。
 そうなのだよ、諸君。
 日本というシステムはあの方々の滅私奉公的オーバーアチーブによって支えられているのである。
 あの給料で、よくあれだけ働きますね…とOL諸君は感動していた。
 そうなのだよ。
 諸君はこれまで気づずかずに来られたのであろうが、資本主義企業における「労働に対する対価としての賃金」はつねに労働が生み出した価値よりも(すごく)少ないのである。
 しかし、この「不当に収奪されている」という実感が「自己を供物として捧げることで共同体を維持する」という太古的・呪術的な社会観に深いところで通底していることに気づいている人は少ない。
 「自己を供物として捧げる」ということは、人間に深い感動をもたらす経験である。
 おそらく「自己を他者への供物として捧げ、他者によって貪り食われる」という事況そのもののうちに強烈な快感を覚える能力を得たことによって人類は他の霊長類と分岐したのであろう。
 そこが人間とサルの違いであり、違いはほとんど「そこだけ」にしかない。
 だから、自己を供物として捧げることを拒む人間は定義において「人間」ではない。
 人間の定義とは「わが身を捧げる」ものである。
 人間は「すねを囓られる」という経験を通じてはじめて「自分にはスネがある」ことを確認し、「骨までしゃぶられる」という経験を通じてはじめて「自分には骨がある」ということを知るという逆転した仕方でしかアイデンティティを獲得することができない「生き物」である。
 だからサラリーマンがその労働の対価として不当に安い給料で働くことは、それ自体が根源的なしかたで「人間的」なふるまいなのである。

 仕事というのは「額に汗して」するものであり、先般も申し上げたように本質的に「オーバーアチーブメント」なのである。
 このことは繰り返し学生諸君にお伝えしなければならない。
 賃金と労働が「均衡する」ということは原理的にありえない。
 人間はつねに「賃金に対して過剰な労働」をする。
 というよりむしろ「ほうっておくと賃金以上に働いてしまう傾向」というのが「人間性」を定義する条件の一つなのである。

さてこれらの記述を読んで即座に「ウチダはこの資本主義社会で滅私奉公を推奨するとは何事だ」とか「ウチダは「贈与」と「労働」を混同するとは何事だ」などと言ってはいけません。「不当に収奪されている」「自己を他者への供物として捧げ、他者によって貪り食われる」「わが身を捧げる」という言葉から、内田氏が「労働」=「贈与」とみなしているように読み取りそうになりますが、これらのことは「贈与」でも「労働」でも実現できることであり(あとで補足説明します)、内田氏は「労働」=「贈与」とはみなしておりません。内田氏は「労働とは常にオーバーアチーブメントの非等価交換である」と明確に述べています。
内田氏が「労働は贈与である」と言っていると認識されている方は、以下の図のように「贈与」と「オーバーアチーブメント」を混同してしまっていています。
【図2:「労働」=「贈与」との誤解】  (←クリックすると大きく表示されます)
先ほども定義しましたように、「贈与」とは「生み出した価値に対して、見返りを求めないので、得られる対価は0」です。
それに対してオーバーアチーブメントとは何か。さきほどの「労働」の定義「生み出した価値に対して、得られる対価が低いこと」の残余の部分です。言い換えると、「贈与」の意思があろうとなかろうと結果的には「対価を得つつもそれ以上の価値を生み出していること」です。これは「労働力を贈与せよ」「贈与のように滅私奉公で対価を求めず労働力を提供せよ」という意味とは明確に違います。

ここでのポイントはふたつです。

  • 内田氏は「労働=贈与」とはみなしておりません。内田氏は「労働とは常にオーバーアチーブメントの非等価交換である」と述べています。
  • 労働は労働力を提供してその対価を得る「等価交換」であると建前上は認識されておりますがそれは虚構です。労働は実は「非等価交換」です。その結果、滅私奉公的・贈与的な「オーバーアチーブメント」が発生しています。
    • 補足
      「不当に収奪されている」「自己を他者への供物として捧げ、他者によって貪り食われる」「わが身を捧げる」ことは「贈与」でも可能です。しかし「労働」に参入することで、そこから生じる「オーバーアチーブメント」が、「贈与」の意思があろうとなかろうと、結果として、「不当に収奪されている」「自己を他者への供物として捧げ、他者によって貪り食われる」「わが身を捧げる」ことになるとも言えます(ここでの「不当」とは「等価交換」ではないという意味でしょう。)。混同しやすいですが先に見たように「贈与」と「労働」は根本的に別物です。

4.「労働」とは常にどんな水準であれオーバーアチーブメントであること

「労働とは常にオーバーアチーブメントの非等価交換である」とは

  • 「働いて生み出した価値よりも賃金(対価)は必ず低いこと」
  • 「結果的に賃金(対価)よりも多く働いてしまっていること」

です。「結果的に賃金(対価)よりも多く働いてしまっていること」とはどういうことなのでしょうか。

■資本の搾取

araikenさんのエントリーの記述にもあったり、内田氏ご自身も述べられているように、「労働と賃金の「等価性」はいわば幻想的なものに過ぎ」ず、「株主に配当したり、設備投資したりするための原資は他ならぬ諸君の創り出した労働価値の「上前」をはねることでしか得られない」からという面がまず思い浮かびます。いわゆる「資本の搾取」という発想です。生み出す価値に対して対価が限りなく低い状態の「低賃金労働」、(対価が支払われたとしても)生み出す価値を過剰に求められる場合の「過剰労働」などの労働条件の問題はもちろん重要ですが、内田氏は「低賃金労働」や「過剰労働のような「オーバーアチーブメント」を行えなどとはどこにも書いていないと思います。
しかし労働条件が改善され、「資本の搾取」なるものが解決したとしても、基本的には「労働とは常にオーバーアチーブメントの非等価交換である」という原理は変わらないと考えます。以下説明します。

■分業制が進んだ社会における「労働」

自給自足のライフスタイルのときには「自分が必要なものを生産し、自分で消費する」という労働の自家消費が可能でした。仮に自給自足で生活のすべてのものが調達できるのであれば、人間は他者からモノを購入したり他者へ余ったものを提供するという意味の「社会」を営む必要性がありません。これは内田先生が述べている以下のことに該当します。

「糸の出がいいから」という理由で自分用以外の巣を張る蜘蛛や、「歯の切れがいい」からという理由で隣の一家のためにダムを作ってあげるビーバーを私たちは想像することができない。 そのような「過剰な労働」は動物の本能にはビルトインされていない。

それに対して、分業化が進んだ社会のライフスタイルでは「他人が必要なものを生産し、他人が生産したものを消費する」という様式が一般化します。つまり自分の労働力をまず他者が必要とするものを作ることに向けられ、その対価としての賃金という貨幣を得て、他人が生産したものを消費します。
時間も資源ですので、自分が自分のために使う労働時間を、他者の望むもののために使い、そこから得た貨幣を自分が望むもののために使う、というのはたとえ労働時間と貨幣の価値が等価だったとしても、時間が「オーバーアチーブメント」になります。
「雇用」という関係は、まず労働力を提供しなければ維持できません。まずは自分の必要ではなく他者の必要のために時間・労力を使い、迂回としての労働を経た後、賃金としての貨幣を得、自分の必要を満たすことができるのです。ここで大事なのは自分の必要を満たすために「労働力がすべて自家消費がなされない(=結果的にオーバーアチーブメントが発生する)」という構造です。
また消費の面においても僕たちは「等価交換」ではなく「オーバーアチーブメント」を行っています。考えてみればわかるように、モノを買うとき僕らは原価に利益を上乗せされた価格を支払います。つまり労働分の原価以上の支払を行っているということです。ここでも「貨幣」という媒介は「最終的に」使用しなければ意味がありません。ただの「可能性」で終わってしまいます。貨幣そのものを自家消費できません。
このように分業化が進んだ社会では、僕らは必要なものを得るための貨幣を得るためにオーバーアチーブメントの労働力提供をし、必要なものを得るためには価格の支払いにおいて原価より多くの貨幣を支払わなければならないオーバーアチーブメントの消費をおこなっているのです。つまり、その仕組に入っていく(社会に参入する)ということは、他者のために何らかの「オーバーアチーブメント」を実践することになるのです。

■どんな水準でも「労働」は「オーバーアチーブメント」

どんな水準でも「労働」は「オーバーアチーブメント」であることを例示する図を作成しました。まずはご覧ください。
【図3:「労働」における「オーバーアチーブメント」】  (←クリックすると大きく表示されます)
ここではイメージしやすくするために、一日8時間労働を補助線として引いてみましたが、労働環境がすべて改善されたとしても、基本的に「労働」はオーバーアチーブメントです。

  • 短時間労働でも
  • 定時労働(8時間労働)でも
  • 残業しても
  • サービス残業しても

どんな水準でも、気づいたら結果的にオーバーアチーブメントは発生しています。もちろん対価も得ているので「贈与」ではない。でも対価よりも生み出される価値の方が大きいので、結果的に贈与的要素を含む(=滅私奉公的)行動が行われることになるのです。これは「労働」一般に関する本質規定です。だから「労働」一般の本質規定の正否の問題と労働条件・環境・規範の適切性の問題は別問題と言えます(もちろん労働条件・労働環境はよいことに如くは無しです)。


ここから導けるポイントは以下の二つです。

  • 「労働」はどのような条件にしても結果的に「オーバーアチーブメント」となります。だから等価交換の原理でみると、なぜ「労働」するのか合理的に説明できません。それでも人間は労働する=社会参加する=労働力をすべて自家消費しない、という行動をとります。だから「贈与の契機」がなぜ成立するかが問いとなるのです。
  • 勤務時間の長さや仕事量の問題や「労働行うべし」という規範の問題と、「労働は結果的にオーバーアチーブメントになる」という本質規定の問題は基本的に別問題として論じるべきです。もちろん内田氏が語っているのは、「勤務時間を長くしろ」「仕事量を増やせ」「労働しろ」という労働規範的なことではなく、「労働は結果的にオーバーアチーブメントになる」「なぜ人が「労働」を行うのか合理的に説明できない」という労働の本質規定の問題です。

5.「本質規定」と「規範」は違うこと、そして「人間的」とはどういう意味か

理解の助けとなる補助線を引いておきましょう。以下は宮台真司氏の「伝統主義」に関する言説です。

 人間は関係性の動物です。であれば、どんな人間がどんな自己決定をするにせよ、その都度、人間が関係性の動物であることが反映されるはず。同様に、もし人間が共同体的存在であるならば、どんな人間がどんな自己決定をしたとしても、その決定には常に既に、共同体的な存在としての痕跡が刻印されているはず。もしあなたが日本人という共同性の存在を信じているのならば、日本人がどんなに自由に振舞っても「日本人」以外にはなりえない。なぜならその振る舞いは常に既に「日本人的共同性」が「関係性の束」として刻印されているはずだから。あなたはそれ以上のことをあえて言う必要はあるのでしょうか。
・・・(中略)・・・
 つまり「人間は関係的存在だ」とか「共同体的存在だ」といった本質規定をした途端、その人がどんな自己決定(自由な選択)をしても、「関係性」や「共同性」は論理的には「常に既に」貼りついているものとなります。ですから、自己決定(自由な選択)をすれば反関係的・反共同体的になってしまうという考え方は、そう考える当人たちの関係主義や共同体主義自体に矛盾するデタラメな思考なのです。同様に人間の振る舞いは歴史的な伝統のなかで決まると考える伝統主義にとって、たとえ当人が主観的に自由を決め込んだとしても、その振る舞いは伝統的である以外にありえません。
 関係性・共同性・伝統性・・・・・・といった本質規定はすべて同じ論理構造です。アーレントは、人間が共同体的存在だとするなら、共同性はいつでも私の行動に刻印されているといいましたが、カール・マンハイムも伝統主義について同じようなことを裏側から言っています。すなわち本当の伝統であれば、伝統を選べなどと言うまでもなくそこにあるものである。逆に、選べと指示された伝統は「反省された伝統主義」であっても、伝統主義とは関係ないというのです。

(強調部分はkawakitaによる)


上の議論は人間にとっての「伝統」の本質規定です。人間が「伝統」的存在であるならばどんな行為でも振舞えばすでに「伝統」がその行為に刻印されている。だから「伝統的に振舞え」との命令は「伝統」とは全く関係ない。

  • 「伝統主義」=「結果的に〜〜となるのである」
    • 自分が自由に振舞うとそれは結果的に伝統的に振舞ってしまっているという本質規定
  • 「反省された伝統主義」=「伝統に従うならば〜〜でなければならない」
    • 伝統が忘れられているから伝統に従い振舞うべしという規範規定

これまでの「労働」と「オーバーアチーブメント」の議論と似ていませんでしょうか。
そして内田氏がエントリーの中で出されていた「人間的」という言葉もここから解釈すべきです。それでは以下の、(誤読・誤解からの)激烈な反発を招いたであろう、内田氏の言説を分析してみましょう。

サラリーマンがその労働の対価として不当に安い給料で働くことは、それ自体が根源的なしかたで「人間的」なふるまいなのである。

「自己を供物として捧げる」ということは、人間に深い感動をもたらす経験である。
おそらく「自己を他者への供物として捧げ、他者によって貪り食われる」という事況そのもののうちに強烈な快感を覚える能力を得たことによって人類は他の霊長類と分岐したのであろう。
そこが人間とサルの違いであり、違いはほとんど「そこだけ」にしかない。
だから、自己を供物として捧げることを拒む人間は定義において「人間」ではない。

人間はつねに「賃金に対して過剰な労働」をする。
というよりむしろ「ほうっておくと賃金以上に働いてしまう傾向」というのが「人間性」を定義する条件の一つなのである。
動物の世界に「とりあえず必要」とされる以上の財貨やサービスの創出に「義務感」や「達成感」を感じる種は存在しない(たぶん)。

労働するのが人間なのだ。
だから、労働しない人間は存在しない。
はたから労働しない人間のように見えたとしても、主観的には労働しているはずなのである。

下線を引いた部分を以下に抜き出してみます。

  • 労働の対価として不当に安い給料で働くことは、それ自体が根源的なしかたで「人間的」なふるまいなのである。
  • 自己を供物として捧げることを拒む人間は定義において「人間」ではない。
  • 「ほうっておくと賃金以上に働いてしまう傾向」というのが「人間性」を定義する条件の一つなのである。
  • 労働しない人間は存在しない。

抜き出した文章すべて、今までいろいろ述べてきたことから理解していただけると思うのですが、もちろん労働規範としての「贈与」の強制ではなく、「労働」から結果的に発生する「オーバーアチーブメント」こそが「人間的」であると読みかえることが出来ます。つまり内田氏は人類学の有名なテーゼ「資源の全的な自家消費の禁止」をここで述べているのです。「人間的」であるとは「自己の資源のすべてを自家消費しないこと」であり、それは「社会に何らかの形で参加する」ということです。内田氏はこれを「人間的」と呼んでいるのです。資源の自家消費・自己充足を超えて外部に迂回・媒介することで「動物」と分化し「人間」は文化を築いてきたということです。
今村仁司氏は『交易する人間』で「人はなぜ等価なものを贈与し合うのか」という問いに対して、贈与することで事実が蓄積され社会的な繋がりが生まれるとの趣旨のことを述べられています。同じように「労働」は、「贈与」の意思があろうとなかろうと、自らの必要を満たすためにこそ、外部に迂回して「労働」し、結果的に「オーバーアチーブメント」をなすことで、労働力を自家消費せず、社会的な繋がりを生み出すのです。それを自家消費・自己充足する「動物」と区別して「人間的」と呼ぶのです。「等価交換」の原理および「資源の全的な自家消費」はこれを崩すのです。おそらく東浩紀氏の「動物化」という概念はこのこととも関連するのではないでしょうか。


ちなみに「自家消費」のやり方は、僕が考えうる限りで3つあります。
一つ目は先ほども例示した完全自給自足。自分で自分に労働力を使用すれば構造的に「上前をはねられる」ことはないということです。


二つ目は「等価交換」原則の徹底。これは可能な限り提供価値と取得価値をイーブンにするという考え方でしょう。これは資本主義社会だけでなく、社会主義の社会でも起こることを内田氏は例示しています。

マルクス主義が政治理論としては結局破綻したことの大きな理由のひとつは、「人間は収奪されることのうちに快楽を見いだすことができる」という危険な真理をどこかで見落としたことにある。
「能力に応じて働き、必要に応じて取る」共産主義社会は「人間的」な社会である。
なぜなら、そこではおそらく誰しもが「(能力が高く、必要の少ないこの)オレが(能力は低いが必要だけは多い)〈あいつら〉を食わせている」という実感を持つことができるからである。
だが、残念ながら、マルクスの理路によるならば、そこにたどりつく過程で労働者たちは「収奪された労働価値の奪還」という社会主義革命を経由しなければならない。
それは言い換えると「オレの稼ぎはオレだけが享受する。オレのものは誰にも渡さない」という言い分に理ありとすることである。
それは「人間的」な考え方ではない。
そう主張するものはもう「人間」ではない。
革命の大義のために「わが身を供物として捧げる」人々が一定数存在した間、社会主義革命は「人間的」なものでありえただろう。
だが、革命が「成就」し、指導者も人民も胸を張って「オレの稼ぎはオレだけが専一的に享受できる体制の到来」を言祝いだときに、革命は「人間的」であることを止めた。
人間の定義とは「わが身を捧げる」ものである。

マルクス(の影響を受けた革命家たち)は先に挙げた「資本の搾取」「収奪された労働価値の奪還」の問題を過大視してしまうがあまり、労働において完全等価交換の原則が適用された(「オレの稼ぎはオレだけが享受する。オレのものは誰にも渡さない」)体制を構築してしまい、労働力の「自家消費」に限りなく近づいた「人間的でない」体制になってしまったと言うのです。
同じように資本主義体制で「等価交換」の建前をベタに信じきったり「等価交換」を至上原理とすることが成り立つとすると、「オレの稼ぎはオレだけが享受する。オレのものは誰にも渡さない」という認識から、労働力提供のリターンの合理性の説明を徹底的に求めるようになるということです。


そして三つ目に、「一般的に言う労働」を実施しないこと、つまり取引の不成立(=0)が挙げられます。等価交換が提供する労力と支払われる対価の差を可能な限り0に近づけるとすれば、取引の不成立は最初からなにもしないことで提供する労力と支払われる対価の差を0にしてしまう極めて合理的な方法です。しかし「労働をしない人間はいない」とすれば、表面上労働をしていないように見える人は、どのような別種の形態の「労働」を行っているのか。エントリー「不快という貨幣」で内田氏が問題とさているのはおそらくこの点であり、僕が「現代の社会環境への適応形態が表面的に異なって見えるだけ」と述べ、「贈与の契機」の必要性を書いたのは以上の理由からです。

「勉強も仕事も、なんか、やる気がしない」というのは、言い換えると、「『やる』ことの『意味』が私にはよくわからない」ということである。
彼にとって、問題は「意味」なのである。
「意味がわからないことは、やらない」
「自分の能力適性にふさわしい職種と待遇としかるべき敬意が保証されないなら、働きたくない」
これが私たちの時代の「合理的に思考する人」の「病」のかたちである。

あらゆる人間関係を商取引の語法で理解し、「金で買えないものはない」という原理主義思考を幼児期から叩き込まれた人々のうちでさらに「私には別に欲しいものがない」というたいへん正直な人たちが資本主義の名において、論理の経済に従って「何かを金で買うための迂回としての学びと労働」を拒絶するに至ったのである。

彼らが考えている「労働」はおそらく私たちの考えている「労働」とは別のものなのだ。
以下は「労働」の定義変更にかかわる私の仮説である。
私の仮説は「働かないことを労働にカウントする」習慣が気づかないうちに社会的な合意を獲得したというものである。


内田氏の本質規定の言説を規範言説として解釈(誤読)し(オヤジの戯言として)否定すれば、「労働」の建前の「等価交換」ですべて物事を説明しなくてはならなくなります。つまり「等価交換」が成立しない行為には動機付けられなくなってしまう可能性が出てきます。だから「労働」が社会においてどのように成り立っているかが問題になります。

  • 第一義(建前):労働は等価交換である(働いた分だけ得る)
  • 第二義(実態):労働は等価交換ではない、非等価交換である(働いた分だけ得ているわけではない)
  • 第三義(成立契機・本質規定):労働は(贈与の)契機がなければ回らない(自家消費の禁止、個人・システムの労働が生み出した価値―対価の価値=剰余価値(オーバーアチーブメント)の提供、自分には必要のないものを提供することに時間を使う)、だがそれは合理的に説明することができない。

この図式において第三義の「労働」の成立契機・本質規定を簡単に強制贈与・搾取の言葉と批判するから、労働の合理性を問わなければならなくなるのです。
内田氏は、人間は社会参加するすると結果的にオーバーアチーブメントを贈与する形になっていると本質規定しているにすぎず、だから「人間ならば働かなければならない」「過剰労働しなければならない」などとはどこにも述べられておりません。読む側がそう読み込んでしまっているだけです。「労働」の本質規定を労働規範と誤読あるいは意図的に曲解している*2に過ぎません。誤読から仮想敵を導出して自分の批評性を確保するという振る舞いはやめるべきです。
(誤読したがゆえに)「こんなことを書くから若者は働かなくなるのだ」という文章を内田氏に批判的な方々は書かれておりますが、労働の構造を学習するための言説を規範的強制であると指弾し、労働の構造を建前と実態(第一義と第二義)だけに平板化してしまうことで「贈与の契機」を考えようとしない、そして思いつきもしないことこそが、特に若年層を「等価交換」の原理の只中に置くこととなりいわゆる「労働」から遠ざける機能を果たすと考えます。

 労働もまたそのような「個人が自発的に演じうるものではない」ところの社会的行動のひとつである。
 だから、「仕事をする」というのもまた、「神に祈る」とか「言語を語る」とか「ひとを愛する」と同じように、「するか、しないか」を自己決定することも、「どうして」そのことをしなければならないのかの理由を合理的なことばで説明することも、私たちにはできない種類の営みなのである。

NEETの問題は、「いいから、とりあえず人間は働いてみるもんだよ。給料はたいしたことないけどね」というおそらく数万年前から人間が(とくにその理由を問うこともなく)慣習的に言い交わしてきたことばを、私たちの時代が「言い渋っている」ことに起因する。
私はそう考えている。

「NEET」なる対象の問い直しが進んでいる現在、上記引用の「NEETの問題は」という部分は再検討の余地があると僕も同意します。しかし内田氏が仰っていることは、「贈与の契機」と「資源の自家消費の禁止」ということが我々が「人間的」であることを担保してきた、という点からは基本的にずれていません。
内田氏からすれば「内田氏が「労働=贈与」と認識違いをしている」などという(少なくとも僕から見れば)誤読をなされていた方々の批判などは歯牙にも掛けないでしょう。内田批判をされている方々は僕の当エントリーに対して「自分には内田氏の言説は「労働規範」にしか読めない」「内田氏の言説は社会的に「労働規範」の言説の機能を果たしている」などと強弁しないで、また「そういう風にも読めますね」「人によって見解は違いますから」などと逃げずに、まずは書かれていることをちゃんと読解してから論理的に反論していただけると幸いです。

6.最後に

「ウチダは労働の本質規定なんてしてないで、労働条件についてもっと気を配るべきだ」という議論ならばまだ僕も耳を傾けましょう。しかし現代では、「労働」することはすでに誰にとっても自明ではなく、やるかやらないかの「選択対象」であり、もしかすると資源の自家消費こそ合理的であるかもしれず、労働に向かうための契機=「(オーバーアチーブメントによる)贈与の契機」=「労働力の外部消費」を合理的に説明することが出来にくくなっているのです。内田氏の一連のエントリーに記述はその状況の説明と言えましょう。
「自家消費」の道は、自給自足か*3デイトレーダーか(こちらをご覧ください)、「自己実現」のための何かしらの追求か*4、(自発的/非自発的)無業か*5。その選択肢に危うさを覚えるのであれば、等価交換の原理で合理的に説明できないとしても、まずは労働へ、いや、社会への参入のための「贈与の契機」を考えることこそ重要と申せましょう。


以上です。(ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。)


ここまで説明を書くのはけっこう疲れました。なんで僕がこんな解説をしなければならないのでしょう。おおこれはひどい1000はてなポイントですw (originated from 内田樹の研究室「不快という貨幣」)




―――【追記:2006/03/15-16】―――――――
Blog「数学屋のメガネ」さんでも内田樹氏のエントリー「不快という貨幣」への批判的言説への問い直しが行われています。

「労働は贈与である」と平面的な表現にしてしまうと、内田さんの真意を間違って受け取るだろうと思う。そうすれば、その批判も内田さんの表現を批判したものではなく、間違って受け取った表現を批判したものになる。これは、意図的ではないかも知れないが、意図的にこういうことが出来ると、どんな相手でも批判することが出来る。論理的に批判出来る形に受け取ることさえ出来ればいいわけだから。その受け取り方は、どう解釈しようと読者の自由だということになれば、まさに批判は思いのままと言うことになる。

実際には、論理的に受け取らなければならない文章は、論理的に受け取ることに失敗すれば、それは的はずれの批判という反批判を受けることになるだろう。内田さんの主張を批判するなら、「労働」の本質を語る文脈で、そこに「贈与」としての性格が入り込んでいないかどうかを問題にしなければならないだろう。「労働」一般が「贈与」一般とイコールだというような文脈で読んでしまえば、そこには矛盾した面があるじゃないかとしか思えないだろう。

(強調部分はkawakitaによる)



―――【追記:2006/03/15】―――――――
よろずもめごと論さんの「虚業と実業」というエントリーの中に興味深い記述があります。

 これに類するもので私が「虚業」と考えるのは、いわゆる「デイトレーダー」だ。これは自己の資金を市場を活用して運用し、自分でその利益(損害)を得るのを「生業」としている人々のことを指すのだろう。
 「本業」があって、それで得た金を運用するのであれば、それはそもそも「業」ではないから、「実業」「虚業」を論ずる対象にはならない。
 しかし「デイトレード」を、事実上の本業とし、それのみを日々の糧、もしくは資産形成の方途としている場合には、これは「虚業」という他はないのではないか。なぜなら自分以外の誰もそれを必要としていない、それに対価を支払ってくれることはないからである。

(強調部分はkawakitaによる)



―――【追記:2006/03/16】―――――――
ある方からはてなポイントを本当にいただいてしまいました。感謝感激です。ありがとうございました。また「模範」よりも「規範」の方が適切ではないかともご指摘いただき、僕もそう思ったため、すべて「模範」から「規範」と書き換えました。


―――【追記:2006/03/17】―――――――


―――【追記:2006/03/18】―――――――


―――【追記:2006/03/20】―――――――
ご指摘いただき気づいたのですが、当エントリーの「労働は常にオーバーアチーブメント」というのは暗黙の前提がありました。それは利潤率が正(利潤が出ていること)です。詳細は以下。

*1:「贈与の契機」と書けばより誤解が少なかったと反省しています。

*2:まだこちらの方が悪意はあっても救いがありますが

*3:これも労働と呼べますが、今回の「労働」はあくまで賃労働を想定しています。

*4:これに値がつく場合はあります

*5:僕の発想が貧困なので、他に労働力の自家消費での選択肢を思いつく方は教えてください。