内田樹の研究室「不快という貨幣」は単純な「俗流若者論」か?

毎回はてなブックマークが大荒れの内田先生のエントリー。2006年02月23日のエントリー『不快という貨幣』にも「悪意がある」「ひどい」との批判が目につきます。

内容を簡単に言えば、「等価交換」しか受け付けないという「功利的発想」が浸透した結果、若者は自ら受けた「苦役」「苦痛」という負の「貨幣」の貯金に対して、「債権」の即座の支払いを求めるように振舞うようになり、表向きに見ると「学び」や「労働」を拒否しているように見えるのではないか、という仮説。

キーワードは「等価交換」である。
商品と対価が釣り合うこと。それが市場経済の原理なのである。

私の仮説は、「労働から逃走する」若者たちは、大量の「不快の債権者」としてその債務の履行を待ち焦がれているというものである。

僕はこのエントリーを読んで以下のエントリーを思い出しました。

労働もまたそのような「個人が自発的に演じうるものではない」ところの社会的行動のひとつである。
だから、「仕事をする」というのもまた、「神に祈る」とか「言語を語る」とか「ひとを愛する」と同じように、「するか、しないか」を自己決定することも、「どうして」そのことをしなければならないのかの理由を合理的なことばで説明することも、私たちにはできない種類の営みなのである。
NEETの問題は、「いいから、とりあえず人間は働いてみるもんだよ。給料はたいしたことないけどね」というおそらく数万年前から人間が(とくにその理由を問うこともなく)慣習的に言い交わしてきたことばを、私たちの時代が「言い渋っている」ことに起因する。
私はそう考えている。
「勉強も仕事も、なんか、やる気がしない」というのは、言い換えると、「『やる』ことの『意味』が私にはよくわからない」ということである。
彼にとって、問題は「意味」なのである。
「意味がわからないことは、やらない」
「自分の能力適性にふさわしい職種と待遇としかるべき敬意が保証されないなら、働きたくない」
これが私たちの時代の「合理的に思考する人」の「病」のかたちである。
・・・
きわめて合理的である。
ほとんど「ビジネスライク」と言ってもいい。

このエントリー、当時盛り上がっていた(?)/まだ盛り上がっている(?)「NEET」に関して論じられたもので、本田由紀氏・内藤朝雄氏・後藤和智氏の『「ニート」って言うな!』を読んだあとでは「俗流若者論」と言われて仕方ない部分があるものの*1、若者の「現在の社会環境への適応の仕方」として読めばそれなりに納得のいくものでした。今回の「不快という貨幣」も「現在の社会環境への適応の仕方」への仮説として読めるのではないでしょうか。
「自分の行った行為に対して、「確実に」評価されなければ、「確実に」対価をえられなければ、「確実に」等価交換が起きないのであれば、意味のないことはしない。」
この価値観は多かれ少なかれ、老いも若きも、どんな社会的立場であれ、ある程度内面化しているものであり、現代の社会環境への適応形態が表面的に異なって見えるだけではないかと考えます。ぎりぎり団塊世代の(?)内田先生が若者を例にこの適応状況を語っている点で悪意を感じる向きもあるのではないかとは思いますが、読みようによっては、内田先生と同世代と言うか、現在の「若者」が理解できないと感じている方々へ「若者たちはあなた方と同じ価値観で動いており、ただ環境や初期条件があなたたちと異なるため、見た目にあなた方にとって奇異に見える行動をとっているように見えるだけですよ。」と、「若者」を理解不能なものとして排除するのではなく、自分たちを「まとも」だと思っている人たちの側に包摂しているようにも読めないでしょうか。それとも自分を棚上げにして「若者は「等価交換」の価値観がが浸透しきっていてビジネスライク過ぎてけしからん」と記述しているように読めてしまうでしょうか。
僕には単なる俗流若者論とは読めませんでしたが、皆さんの意見は如何?


さてこの「等価交換」「合理的思考」の浸透した社会で、どうすればよいのかというヒントが、中野昌宏氏・大分大学経済学部助教授のブログ「社会分析的ブログ」の以下のエントリーで示されております。

「将来の展望を,現在の努力」へと織り込むという,時間を「先取り」する思考のサイクル――むしろ「意志」――が消えてしまって,「現在の債務を,いますぐ取り立てる(しかない)」という刹那主義へ。
これって言い換えれば,「時間」が止まったということではないか。
未来がない,ということはそういうことである。

しかし世の中には,「交換」の原理だけではなく,「贈与」の原理というものもある。「贈与」には,「時間」が大いに関与する。例えば誰かからプレゼントをもらってその瞬間に返礼をしたら,角が立つ。それだと先方は「贈与」するつもりだったのに,「交換」になってしまうからだ。「交換」されたら,その場で人格的な関係は終わる。貸し借りがなくなるから。先方は人間的な関係を築こうとしてプレゼントを贈ったのに,善意を帳消しにされてしまったら,それは不愉快だろう。
プレゼントをもらったときは,その場はありがたく頂戴しておいて,その「ありがたいと思う気持ち」を記憶しておき,しばらくたって別の機会に,その気持ちを込めつつプレゼントを返す,というのが正しい(レヴィ=ストロースの言う「限定交換」の場合)。

このシステムのポイントは,「時間を−与える」(デリダ)ということである。すなわち,いまあげたプレゼントの返礼が,いま返って来なくてもよい,という構えが,全員に必要である。
いずれ返ってくることを(見返りを)期待していていいから,しかし,いまその債権を取り立てることのないように,という,一種の余裕の構えである。

中野先生のエントリーも、「若者」に向けて書いているようにも読もうと思えば読めますが、もちろん現在の「等価交換」「合理的思考」の浸透した社会に生きる人すべてが対象になっているのはもはや言うまでもありません。


交易する人間(ホモ・コムニカンス)―贈与と交換の人間学僕は内田先生の仮説と中野先生の論説を大枠で支持します。そして同様のことが年初に購入した*2今村仁司氏の『交易する人間(ホモ・コムニカンス)―贈与と交換の人間学―』において、「贈与」の歴史・仕組と「贈与」が「交換」に変わって過程の詳細とともに記述されています。自発性と善意からの「贈与」、そしてそれをヴァージョンアップした「高貴な義務」こそが、それに動機付けられる者こそが、そのような「人間」を育て上げる環境こそが、今必要なのではないかと思っています。

私的利益をめざす個人の行動を全面的におさえるわけにはいかないし、私的資本主義と市場経済がもたらす困難を克服するために国家の介入が必要であろう。しかし、それらの領分を均衡させる役割をするモラルがどうしても必要であるとモースは考える。それは贈与体制の根幹をなしてきた「高貴な義務」である。

何よりもまず、われわれは《高貴な蕩尽》に戻るし、戻らなくてはならない。アングロサクソンの国と同様に、また未開であろうと、高度に文明化されていようと現に存在する同時代の多くの社会と同様に、裕福なものは――自由に、そして義務として――自分を同胞の富の管理者とみなすべきである。われわれの文明が出てきたところの古代の諸文明のうち、ある文明は五十年祭[たとえば、古代ユダヤの五十年ごとの聖年の祭で、奴隷解放や借金帳消しなどがおこなわれる]を、他の文明[古代のギリシアとローマ]は公共奉仕・・・の義務的支出などを実行していた。この種の掟にまで遡及しなければならないのだ。・・・今なお多くの社会や階級が知っている生活の行動の契機がそこに見られる。公然と皆に贈与する喜び、気前よく美しく蕩尽することの楽しみ、人を歓待する公私の祝宴の楽しみなどがそうだ。共同社会の生活保障、相互扶助や協働の配慮、職業集団、あらゆる法人団体による保証と援助・・・は、貴族が借地人にみとめる個人的な安全よりもずっといいことであり、雇用者が日雇人に与えるしみったれた生活よりもよいことだ。・・・名誉、無私、職業団体の助け合いは無益な言葉ではないし、仕事の必要事に反することでもない。

(『交易する人間(ホモ・コムニカンス)―贈与と交換の人間学―』P272〜273)

そしてそのような「贈与」体制は資本主義の誕生からゆるやかに/劇的に「交換」へと変化したとのことです。
中野先生の「時間」というタームをヒントに考えるならば、「贈与」の契機が社会を成り立たせるために大切な要素であり、それは「交換」と違ったもう少し長いスパンでの(社会としての)「合理性」をもっているような気がします。それは個々にとっては「交換」が「合理的」であっても合成の誤謬となって長いスパンの(社会としての)「合理性」を失ってしまうようなイメージです。
もちろん「贈与」では「労働」が滅私奉公の奨励や強制・抑圧に転化してしまうので、だからちゃんとした「交換」が必要であるわけですが、しかし現代の資本主義システム内で流通していて意識せずとも行われる「交換」の原理が個人の「労働」以外の行動まで徹底的に浸透しきって、社会を成り立たせるためのもうひとつの要素である「贈与」の契機が忘れられがちになり余裕のない(=無駄のない合理的な)社会になってきて若い人の行動に表面化してきている(もちろん上述のようにそれは「誰も」逃れられるものではない)というのが内田先生や中野先生のエントリーの認識ではないでしょうか。

余裕や無駄(のように思えるもの)が果たしてきた機能が再認識されず、(「交換」的)合理性に駆逐されつつあり生活全般にそれが拡大してきていることを危惧されている(ように読める)内田先生の今回のエントリーは、対象は若者だけなわけがなくこの社会全体を示しているという意味で単純な「俗流若者論」には見えない、と思うわけです。
今回の件は、僕も常々考えていたことだったので、拙い内容ですがちょっと書いてみました。

追記:2006/03/15

*1:ニート」ではなく「NEET」と記述している点まだ救われる?

*2:http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20060105#p1