杉田俊介氏×白石嘉治氏トークセッション「フリーターとネオリベ現代生活―われわれの生の無条件の肯定のために」参加

フリーターにとって「自由」とは何かネオリベ現代生活批判序説
 ジュンク堂池袋本店で開催されたトークセッション「フリーターとネオリベ現代生活―われわれの生の無条件の肯定のために」に行って参りました。
当初は『フリーターにとって「自由」とは何か』の著者・杉田俊介さんと矢部史郎さんのトークの予定でしたが、矢部さんが急遽事情とのことでジュンク堂から前日連絡があり『ネオリベ現代生活批判序説』を編集された白石嘉治さんが代わりに対談されました。


※要注:以下のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。


まず白石氏から「ネオリベラリズム」とは何か、ということで簡単な事例や説明がなされました。

  • 市場原理主義とは需要と供給ですべての価値が決まってしまうという幻想。
  • それを実現させるため日常生活の様々な面に圧力がかかってくる状況。
  • 選択の際にあらゆるものが需給のバランスとして認識され、経済的枠組に縛られる。
  • 無理が発生した先は警察権力・治安による暴力で問題解決をしようとする。
  • 欲望があらかじめ制限された感覚を抱くようになり、枠組から逸脱するような感受性が損なわれる(閉塞感)

一方、『フリーターにとって「自由」とは何か』で、明確な現代批判を行われていた杉田氏は著書の帯の「私たちはもっと怒っていい」という記述について自問されていました。杉田氏は従来の「運動」からはほど遠い人間であるという自己認識とのことで、ある種の無能力・欲望のなさ・何かにノレない感覚があり、自分の中に怒りがあるか・何かに明確に怒っているかは疑問で自己嫌悪のほうが強い、と述懐されていました。
杉田氏の認識として、

  • フリーター・ニート・ひきこもりとカテゴライズされるが、基本的にどこか連続性があるのではないか
  • 正規雇用・周辺労働というラインで切って考え、フリーター/ニート/ひきこもりに分断を持ち込むのではなく繋ぐ認識
  • カテゴライズされる人たちはまじめな人が多く、世に流通している若者観と違って労働に対する罪悪感すらもっており、労働の倫理感はむしろネオリベラルなものを内在化しており、その倫理的高さと現実のギャップが内側に向って自己嫌悪になっているのではないか

と仰っていました。
杉田さんにとって「怒り」とは、現状に対する(社会だけでなく自分への)違和感であり、短いスパンでの熱狂と失望(の上下)のようなものではなく持続する「怒り」であり、粘り強く継続的に考えて現実に投げ返していくということであると仰っておりました。
著作やBlogを拝見していると、強くはっきりした批判をされる方とのイメージが自分の中であったのですが、あたりまえのことですが、実際のお話を聞いてみてその語り口や内容からも杉田さんは考え・迷い・逡巡する方でもありました。

ちなみに以下が僕が杉田さんの『フリーターにとって「自由」とは何か』の購入のきっかけと読んでの感想。


無産大衆神髄会場に矢部史郎氏と共著で『無産大衆神髄』という著作を出されている山の手緑さんが来場されていて、語り口は超・脱力系で

  • 運動に参加しようにもノレないのはよくわかる
  • しかし杉田さんはぐったりしていない(ように見える)のでもっとぐったりしたほうがいいw

とコメントされていました。
白石氏も、「生の無条件の肯定」とは間違え・不和・中断・錯誤を認めることでもあり、杉田さんはちょっと間違わなさ過ぎるので、整合性などはたいした問題ではなく声を発して衝突が発生したときにそこから考えればよい、とエールを送られていました。
やはり皆さんの杉田さんへのイメージも僕と似た感覚だったのでしょうか。そういう意味で実際お話を伺うのは著者の方のイメージがまた違ったものになるのでとても貴重な機会です。


今後の展望として個人個人に何が出来るかということについて、白石氏が

  • すぐに「代案を示せ」と言われるが必ずしも必要ない
  • 何かを表現し社会的なコンフリクトを明確化して投げかけることができる
  • 短期間に生産・消費されすぐに結果がでるようなものではなく通低音としての怒り・欲望に支えられた表現が重要
  • ネオリベラリズムは効率的でない・役に立たない・無駄なことはするなと攻撃してくるので、個人が想像力を持つ時点で政治が始まっているし、何かが始まっている。

と杉田さんに(そして集まった人々に)エールを送られていました。


ちなみにトーク後の質問コーナーで、リバタニアニズムについて杉田さんはどう考えられておられるかを質問したのはkawakitaでした。杉田さんは

  • 個人の自由を徹底する延長上では何かを分配したり誰かを生かすという考えは根本的にはでてこないのではないかという直感がある*1
  • しかしある種の自由を徹底すると言うときにリバタニアニズムは甘く見れない思想でもある。

と仰っておりました。
杉田さんはこれまでリバタニアニズムを徹底批判されているイメージがあったのですが、僕が森村進さんの講演*2を聞いたときの感想と同じように「そう簡単に否定できる思想ではない」という認識をされておりました(会場ではネオリベラリズムとリバタニアニズムが混同されていたのかちょっと戸惑われている方もおられたようですが。*3)。ご回答ありがとうございました*4。個人的には、ほぼ同世代として杉田さんのお話に大変親近感を抱きました。


※要注:以上のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。

国際人権A規約13条問題

本田由紀先生のBlog「もじれの日々(id:yukihonda)」で「教育関係国際比較データ」が紹介され日本における高等教育の学費の家計負担がいかに高いかということを書かれていたのですが、今回のトークで白石氏から国際人権A規約13条について説明いただきましたので記述したいと思います。
国際人権A規約は、正式には「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」というらしく、その13条2項に「(c)高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること。」とあるそうです。日本は1979年に国際人権A規約を批准しいるのですが、この条項を留保しているそうです。

外務省の見解は以下の通り。

これを留保し続けているのは批准国151ヶ国で日本・ルワンダマダガスカルだけで、先進国の日本が留保する合理的理由がないという国際理解があるそうです。国連からもこれについて勧告を受けていて2006年6月30日までに日本の講じる措置について回答を求められているとのことです。
以下のサイトではこの問題について様々な議論がなされており大変参考になります。

追記:2006-05-20

*1:id:x0000000000:20060116:p2さんと似た意見でした。今後注目したいです。

*2:http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20060114#p1

*3:当記述につきまして、発言者の大野英士さんよりコメントいただきました。私の誤解のようでした。申し訳ございません。詳細につきましては当エントリーのコメント欄をご覧ください。

*4:トーク終了後、杉田さんにご挨拶させていただきました。