杉田俊介『フリーターにとって「自由」とは何か』読了

フリーターにとって「自由」とは何か杉田俊介氏の著作『フリーターにとって「自由」とは何か』を読み終えました。
フリーター問題を「フリーター」というカテゴリーだけの問題とせず、世代間およびこれから社会に出る/生まれてくる未来の世代との問題、日本を含む先進国の流動的な不安定労働者問題、先進国と第三世界の南北問題、社会のマイノリティの問題など、多くの絡み合う問題に全面的に正面から抵抗し解決の糸口を探そうと試みている力作であり、自らの加害者性/被害者性に目をつぶることなく、社会に溢れた・自己の内に解決せずに厳然と存在する矛盾といかに対峙していくかという決意の書でもありました。
思考するなら関係する複合的な問題の一部分に目をつぶって自己正当化せずに全面的に絡めて徹底的に考えろ、自己の弱さや卑怯さを隠すための正当化はやめて問題と正対せよ、という主張は僕にカントの厳格主義を思い出さました*1。それは杉田氏の主張を厳格主義・理想主義と切り捨てる意味ではありません。杉田氏の主張は外側から僕らに押し付ける理想ではないのです。僕らの(杉田氏の)内側で己に誠実に真摯に向き合ったときに導き出される僕らの「内的自律」のための課題なのです。杉田氏の主張の厳しさ・激しさにはこれまで2度聞いた中島義道氏の理解におけるカントの「道徳的であれ」という主張に通じるものがあると思いました。

  • 2004-11-20 獨協大学創立40周年記念&カント没後200年記念講演会「現代に生きるカント哲学」参加
    http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20041120#p2
    中島義道氏の講演「幸福と道徳善との関係――カントの根本悪の問題を手がかりに」
    • カントの人間観として、人間というのはもともと不完全な存在であって、完全に善いことをする人間がいるわけはない。
    • 論理的に「私は自己愛がありません」ということほど自己愛的な自己欺瞞はない。自己愛を認めなくてはならない。
    • 人間にせいぜいできることは道徳と「闘争」している状態。常に欲望をチェックしている状態。人間は道徳法則に絶えず違反しようとする性質がある。しかし命令は下ってくる。
    • カントは幸福になれとは命令しない。人間は自然に幸福を求める。しかしカントは幸福に値するようになれと命令する。それは道徳法則を第一にしろということ。
    • 常にいつもどういう場合でもという普遍性がない限り、どんな歯止めをかけても転倒は起こりうるのでダメだ、というのがカントの要求していること。これをごまかさないで問い続ける生き方がカントが望んでいる人間像。その生き方の過酷さが実践理性の実在性を示す。
    • 我々は根本悪という絶大な引力圏に入っていて、善いことをしようとすればするほど悪に染まっていく。しかしやめることも許されず逃れられない。自殺もダメ。そのような中で悶えていくことが道徳的。カントは善いも悪いもないという直前の状態で踏み止まっている。
  • 2005-12-04 日本カント協会 創立30周年記念学会 記念公開講演参加
    http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20051204#p1
    中島義道氏の講演「カントにおける『悪』の問題」
    • カントの道徳法則(定言命法)は「真実性(嘘をつかないこと)」が幸福になることの上位におかれている。幸福を実現する限りで真実性を追究することは道徳秩序を転倒させることになる。これがカントのいう「根本悪」。
    • これを前提にすると社会生活が破綻して営めない。ではカントはなぜそのようなことを言ったのか。
    • カントの道徳法則に従うのは無理と諦めて生きていくのはシニシズム
    • また自分は動機の転倒を巧みに回避して正直に道徳法則に適合して生きていけると思っているのが最も転倒している。
    • ポイントは「命じられているけれど正解がないこと」。多くの哲学研究者はカントの定言命法を解釈で修正しようとするが、そうすべきではなくそのまま解釈して、自分の行った行為が適法的行為であったとしても動機の転倒せざるを得ないことを受け入れて「納得しない」という契機が重要。
    • 自分の行動に対して「仕方がない」「仕方がなかった」と言わない!

ひとつだけ批判的なことを書くとすれば、主張のあちこちに人文学的レトリックが多用されすぎてて、杉田氏が想定している(もっとも主張が届いて欲しい)読者に届きにくいかもと思いました。
しかし、それは本書の価値を貶めるものでは全くありません。現代の必読書かと。

*1:実際カントも著作内で引用されていました。