村上春樹『東京奇譚集』読了

東京奇譚集土曜日は実は仕事をずっとしていて、それから一旦睡眠。ようやく深夜から時間がとれたので村上春樹東京奇譚集』を読む。前回『アフターダーク』を読んだときに作品内のあるフレーズについて書いたように、やはり「今自分が読むべきだった」と思わせられる*1ものだった。かなり満足。多分近いうちに再読すると思う。


僕は村上春樹氏の最近の作品では『海辺のカフカ』や『アフターダーク』よりも『神の子供たちはみな踊る』が好きなのだけれど、今回の『東京奇譚集』も短編形式でありテーマもほぼ同じように思われる。なんと『神の子供たちはみな踊る』の短編の中の一つのサイドストーリーまである*2。タイトルにあるように、東京を舞台として起こる様々な奇妙な不思議な出来事を描く。キーワードは宮台真司氏の言葉を借りるなら「世界の未規定性に開かれる」態度とそれを受け入れる「覚悟」(と「福音」)ではないかと思う。


宮台氏は自身の映画評論『絶望 断念 福音 映画』の中で、「コミュニケーション可能なものの総体」を<社会>と呼び、「世の中にあるありとあらゆるもの」を<世界>と呼ぶ。そして「制御不可能な偶発時によって、自己完結した<社会>の中に不意に名状しがたい<世界>が闖入することがあり、そのとき<社会>の外が突如可視的となり、同時に、<世界>の中にたまさか<社会>があるに過ぎないという「端的な事実」が露わになる。」とする。その「<社会>の外からの<訪れ>を、破壊と共にある「黙示録」として聞くか、敏感さと共にある「福音」(よき知らせ)として聞くか」という対立があると言う。
「福音」としての<世界>の訪れの具体例として映画『マグノリア』と小説『神の子供たちはみな踊る』がとりあげられており、『マグノリア』では「降り注ぐ数百万匹の蛙」が<社会>に闖入してくる<世界>の表象として直接的な非日常として描かれているのに対して、『神の子供たちはみな踊る』では神戸の震災という非日常は「きっかけ」として後景に退いており、「遠雷のごとき震災のざわめきを予知夢とする形で<社会>の外に拡がる<世界>への敏感さが研ぎ澄まされたところに、予知通り、<世界>から「名状しがたいもの」が、非日常の大音響としてではなく、日常の隠された綻びから聞こえる囁きのごとく<訪れ>る」とする。そしてそれは「黙示録」ではなく「福音」へ転換して私たちの<社会>でのポジショニングや動機付けをリフレーミングすると述べる。


これに照らして考えると、今回の『東京奇譚集』には『神の子供たちはみな踊る』の「震災」のような共通的なモメントはもはやない。おそらくもう必要でないほどに我々が見ている<社会>の姿は自明なものでなく、各自個別に綻びやすいものなのではないかと思う。しかし共通的なものでなくとも「きっかけ(奇譚)」は各自個別に遍在しており、それを見逃さず目を逸らさず、覚悟を持って受け入れることができれば、我々は<世界>に開かれうるし、それが「黙示録」的混乱を一時的にはもたらしたとしても、我々の「福音」となりうることである、と肯定しているように思われる。

*1:これは村上春樹氏の新刊を読んだときいつも思うのでかなりあてになりません(笑)

*2:読者なら「淳平」という名前を出せばわかるだろう。