批評についてのメモ

「批評」「批評性」についての心得メモ。

批評性というのは「悪いのは誰だ?」という問いの形式で思考する習慣のことではない。
批評性というのは、どのような臆断によって、どのような歴史的条件によって、どのような無意識的欲望によって、私の認識や判断は限定づけられているのかを優先的に問う知性の姿勢のことである。

    • 「発見」がないと「批評」の名に値しない、誰もが思いつく批判を書いてもそれは批評の名にすら値しない。
    • 作家については好き嫌いは言えるけれども、斉藤氏は「すべて症状において等価」と考えている。人間の営みはすべて「症状」と捉えるのがいわゆるラカニアンの精神分析の立場。なので斉藤氏が書き物を書いたりトークしたりするのも「症状」。すべて症状として等価と考えると、その優劣を論じても仕方がない。症状的に等価なのであとは選択の問題。何を選ぶかというところには多少好き嫌いが入るかもしれない。
    • 作家の意図を当てるのが批評ではなく、作家が無自覚に発見しているものであるとか体現しているものであるとか、斉藤氏の言い方で言えば「症状」であるとか、仲俣氏の言い方で言えば無意識の戦争の記憶を反復しているとか恐怖の表象を共有しているだとかの方が、文壇の変な閉じ方より「開かれている」と言える。
    • プロの批評家の批評は閉じているので段々純化していってテクスト批評になってしまう。それはそれでいいけれども、その世界に関心がない人にとっては読んでいてつまらない。書かれた内容や作家がどういう領域でやっているかなどの立ち位置が発見できてこそ面白い。テクスト批評は、テクストにメタテクスト(メタ言語)が存在しうるという、ラカン派から言わせるとナルシシズムに基づいた身振りでしかない。それこそがその業界を衰弱させかねないので、もっと混血で雑種的なものが生まれてきた方がいいのではないか。