映画『変身』鑑賞

(映画のネタばれ注意)
変身ユーロスペースで今日・13日から公開の映画『変身』を見に行った。『変身』とはあの「ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した」の一節から始まるフランツ・カフカの小説。カフカ没後80周年を記念して映像化とのこと。先月ユーロスペースに『アトミック・カフェ』を見に行ったときに予告されていて、これは見に行こうと思っていた。

僕が小説『変身』を読んだのは多分中学生(高校生?)の頃で、当時の僕にはさっぱり意味がわからなかったのではないかと思う。主人公がなぜ虫になったのだろう、家族に迫害されて可哀想くらいにしか思わなかったのではないか。そして多分その後僕はこの小説を読み返してはいなかった。


今回映画を見てみてカフカの(監督のワレーリイ・フォーキンの)表現したいところは少なくとも以前よりも感じることができたと思う。映画ではグレーゴル・ザムザが虫に変身する前の「気がかりな夢」が描かれている。小説を詳細に再読していないので未確認なのだけれど、この夢の描写はオリジナルなのではないかと思う。
映画は主人公グレーゴルが列車で(販売員の仕事としての旅から)帰宅する場面から始まり、帰宅後家族で食事をする。食事の最中、妹はグレーゴルの前でバイオリンを弾く。父親は妹が音楽をすることに興味がないのかその場で寝てしまう。その後グレーゴルは両親に内緒で妹に将来音楽学校へ行かせてあげることを約束する*1
その夜、グレーゴルは夢を見る。紳士服・帽子など同じ格好をした人間たちが整然と列車に乗り、列車は定刻通り動き出す。列車の中でなぜか歌っている妹を見つけるが彼女を見失ってしまう。妹を列車内で探していると突然上司が現れ彼に迫ってくる。逃げようと列車の個室のドアを開けようとしても開かない。ようやく開いたあるドアの中では、グレーゴルの父親がバイオリンを弾く格好でのこぎりでバイオリンを真っ二つにしている。さらに別の部屋に逃げるがその部屋の天井から大量の土砂が降ってくるところで、グレーゴルは目が覚める。そして「虫」になっている。
映画を見終わった後、小説をぱらぱらと読み返してみたけれど、その後の展開や台詞回しはある程度原作に忠実だったように思う。「虫」は特殊メイクやCGなどは一切用いず、だけれども見事に表現されている。


プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神カフカと同時代の学者マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で述べた通り、当初はプロテスタントが神に救済されるかわからない不安から、己の救済を確信したいがために消費を控え・蓄財をし・それをまた投資をすることで神の祝福を受け取ろうとし、そこから資本主義のサイクルが回り始めることとなった。そして近代社会が完成した後は神に救済されるかどうかという不安よりも、むしろ社会システムに適用できるか・排除されないかという不安が発生し始める。カフカが「虫」をメタファーに表現したこととは、まさにこの「不安」ではないだろうか。社会システムに適応できない・好ましいと思われない存在が周囲からどのような扱いを受けるに至るのかと。
と、するならばカフカが読み継がれるのも理解できる。むしろ現代の方が「不安」はより先鋭化しているとも言える。今回の映画の「気がかりな夢」の描写の挿入もそうおかしいものではない。「効率」が支配する「鉄の檻」では、生計を維持していかなければならない家族にとっては、メンバーがバイオリンに興じることすら不要なノイズであり歓迎されることではない。


しかし、では小説にしても映画にしても最後の描写はどう解釈すればいいのだろう。ラストで家族は電車に乗って郊外に出る。そこで娘(妹)は不幸があったにもかかわらず美しく成長しており、そろそろよい婿をさがさねばと両親が明るい将来を思い至る。小説も映画もある意味平和な雰囲気の中で終わる。だがグレーゴルの事件とは、「変身」とは一時的な局所的な災禍なのだろうか。カフカもフォーキン監督もはたして「虫」を否定的に描いていたのだろか。そう考えるとラストの描写はどういう意味を持つのだろうと考えてしまう。その解釈は読者・鑑賞者に委ねられているのだろうか。
映画を見たおかげでフランツ・カフカの小説『変身』をもう一度読み直して見ようと思った。

*1:小説の中にもグレーゴルが妹を音楽学校に行かせようとしている記述はあった。