攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG ⑤まで鑑賞

攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG 05
休暇+休日中にさらに攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIGを5巻までレンタルで借りて見た。ついにレンタルの最新作まで到達。S.A.C. 2nd GIGの作品中では「個別の11人」なる共謀したわけではない互いに無関連だがあるひとつのテーマだけが共通するテロリストたちによる事件群が物語のメインとして登場する。これは前作のラストに台詞の中で登場したフレドリック・ジェイムソンについての以下の文章の中に登場する「政治的無意識」を思い出さずにはいられない舞台設定となっている。

けれどもかつてフレドリック・ジェイムソンが示唆したように、大衆に愛され大衆を魅了するポップカルチャーの作品群は、個別に見た場合互いに勝手な方向へ作品のベクトルを乱反射させるものの、そうした各作品が集合体になったとき、ある一定方向のベクトルへの収斂が濃密なるメディアから錯視される場合も、決して少なくない。その大衆的欲望の深奥に潜み大衆を巻き込む時代の大きな物語が渦巻く構造を分析して、ジェイムソンは政治的無意識と呼称する。私たちが自然なもの、非政治的なものと片付けている大衆文化の深みに、それを演出し統御する高度に人工的な政治性が潜んでいるという事態こそは、政治的無意識なる準拠枠でしか解読できない20世紀末的現象と言えよう。あらゆる現象が偶然と見えながら偶然でなく、あらゆる現象が錯綜する政治的無意識の鏡像として読みうるからこそ、この世紀末ニッポンの怪物像は、興味深い結節点を成す。

つまり個別の現象に対して背後に大ボスを探そうとして自分で勝手に関連付けを行って「結節点」を作り上げてしまうということか。だとすればやはり「背後の大ボス」なるものは存在せず、ただSTAND ALONEの救われない自意識群だけが存在するということなのか。フレドリック・ジェイムソンの概念を受け継いだとするならばそのようなオチになるのかな?