That's Japan 連続シンポジウム・教育真論2

カイシャを定時ダッシュして北区王子の中央工学校 STEP21に駆け込み、開始時間に20分ほど遅れたが、第2回 That's Japan シンポジウム・教育「真」論2さまよえる子どもたち、模索する学校?公教育の限界と可能性?に参加した。今回のコメンテーターは社会学者・宮台真司氏、劇作家・平田オリザ氏、元文部省で現文化庁文化部長・寺脇研氏。

平田オリザ氏は駒場地区で演劇活動を行っており、かつ演劇をとして幅広い世代に公演・授業・ワークショップなどを行っているらしく、その観点から見た現在の教育とこれから必要な教育について非常に興味深いことを語ってくれた。教育についてさまざまなことが問題となっているが、平田氏は「単語でしゃべる子供たち」というキーワードを挙げた。子供たちは受験競争の中を生きているようにも見えるが、実は競争社会の中に生きてはおらず、すでに皆が進学競争をしているのではなく、早々に降りている子供たちもたくさんいるし、受験競争をしている子供たちもそれに将来的な実りがあると感じて競争しているわけではない、という感覚がすでに一般的であるとのこと。そんななかで演劇を国語の授業に取り入れてもらい平田氏が授業をすることがあるらしいのだが、子供たちは演劇でのコミュニケーションに対して最初は想像力が及ばないらしい。「単語でしゃべる」というのは自分の欲求が単語ひとつで満たされる環境で育ったため、自分の欲求が伝わらないという経験をあまり経ないことに起因するらしい。そもそもコミュニケーションの源泉は伝わらない経験からくるものであり、その決定的な経験があまりない子供たちは、そもそも伝える意思がないようだ。平田氏いわく、これまでの国語教育は教員が生徒に「正しい」言葉を教えてきた。そもそもは明治の殖産興業政策に始まり、昭和の高度成長期までは国民を労働者や兵士にするために正しい言葉を覚えさせるという教育スタイルが中心だったことは否定しようがない。そこでは生徒に教える教員は大学で「正しい」言葉を学んだものであり、その「正しい」言葉は東京(の大学)から持ってきたものであり、東京(の大学)は「正しい」言葉を外国(アメリカ、フランス、ドイツなど)から持ってきたものであった。しかし近代成熟化してしまった現代、すでに正しい言葉なるものはどこにも存在しなくなってしまった。これからの教育では知識と情報のみを伝達するのではなく、コミュニケーションの伝達に重きを置いた授業が必要になってくるのではないか、との見解であった。そうなれば国語の授業とは演劇的になってくると考えられる。これまでは教える側が教えやすいカリキュラムが組まれてきたが、授業が演劇的になればもちろん教師の個人差は明確になる。平田オリザが授業して盛り上がっても、普通の先生が同じ授業をして盛り上がる保証はどこにもない。平田氏は今後、国語教科を「表現」と「文学」に分けてはとの提案をしていた。
寺脇研氏は文部省時代に悪名高い(笑)ゆとり教育を推進した中心人物。寺脇氏はゆとり教育にいたる歴史的経緯をまず説明してくれた。そもそもゆとり教育の発端は1985年の中曽根内閣までさかのぼり、当時の中央教育審議会において方針として決まっていた。寺脇氏が文部官僚の時代はそれの体制を整備する時代であったと言える。ゆとり教育に反対する人の多くは、それまでの国家のための教育をそのまま続けるべきだという人が圧倒的に多いようだ。しかし85年の段階で当時の中曽根首相の下で出てきた方針は、国家のための教育を行い命令に何でも従う国民を作るのではなく、個人のための教育を行い、自分で考え自分で行動する国民こそが国家のためになるという理念だった。中曽根氏の評価はさまざまだが、「国のために」という前提で考えても、一斉教育で従順な労働者を大量生産しても国のためにならないということがすでに85年の時点で気づかれたとのこと。すでにゆとり教育に関する対立は社会観の違いになっており、一人一人の社会観が問われているようだ。つまりゆとり(時間)ができたときに、自分で何を学ぶのか?皆と同じようなことをしていないと不安になるのか?それとも個人で試行錯誤を行って自らに必要なコミュニケーションの回路を開いていくか?ということだ。俗な例えだと、食堂でこれまで定食ばかり食べていた。しかしこれからは注文して自分が食べたいものを食べていく時代になったということだ。教育改革は実は制度の問題ではなく、受け取る子供や親、教師の問題となりつつある。制度はできた。しかし制度を変えても選択されなければ意味がない。これまでは価値観が狭く、外国人を受け入れない、チャレンジよりも失敗を少なくする教育が行われてきた。しかし教育現場とは裏腹に社会はすでに20年前から多様化が不可避的に進行している。とすればいろいろな人が価値観や存在を否定されない教育制度が必要となる。これからは旧・文部省的な価値観に染まっている教師・親に気持ちのいい教育を行っていくのか?それとも教育を受ける側の生徒に気持ちのいい教育を行っていくのかということが問われるであろうとのこと。結論はもう目に見えている。そしてそれは教師や親以外のすべての大人たちが、時代の流れ、歴史の流れを感じてどのような社会を構想していくのかということが問われている、とのこと。
さて宮台氏の登場。昔の著作によく書かれていたことだが、特に90年代を通して顕著になってきた現象が「学校に適応すると、社会に適応できなくなってしまう」という現象。これは僕もすご?く感じている。僕も「学校に適応してしまった」人間なので。日本の親は学校をどうしても到達点と考えてしまいがちだが、宮台氏は学校はあくまで通過点と考えるべきだと言っていた。つまり学校が秩序だっていることはそんなに重要なのか?ということだ。学校の本来の目的は、授業が秩序だっていることではなく、社会を幸せに生き、社会を幸せにすることができる人間を育てることにある、とすると、学校を卒業した後で幸せに社会を生きうる人間を教育できたかどうかが学校の評価となるだろうと。問題はそのことに対して社会的な合意ができているかどうか?現実的にはいまだに国家のための人材育成という観点を捨てきれないでいる。ここでもやはり社会観が問われていると言わざるを得ない。近代が成熟して以降、前もって与えられた課題をこなす人間は国家を真に運営できないという現実が見えてき始めた。そして本当に必要なのは国益を計算でき、人に話し、人を動機付けて動員していく能力が必要となってきている。学校教育は現在に至るまでこの観点へと学習的に変化することはできていない、とのこと。戦後、GHQがまだ駐屯していた頃、まだ国語という強化はなく「言語」と「文学」という教科書があったらしい。「文学」はいまの国語の教科書のように文学を読む教科書。「言語」はなかなか興味深いメディアリテラシー教育の教科書で、ひとつの例としてアナウンサーがニュースを読み上げる場面があり、生徒に対して、「このアナウンサーは本当のことを言っていると思いますか?」「このアナウンサーの原稿を書いているのは誰ですか?」「原稿を決定する立場の人からするとどのようなことが放送されると都合が悪いですか?」など目前にある現実からさまざまなことを読み取る訓練が想定されていたらしい。しかしこの「言語」という強化はGHQが引き上げたあと、当時の日本の教師の手に余ったことで廃止となり「国語」という教科が誕生したらしい。その後、戦後復興の国策から、思考力のある国民にいてもらっては困るという観点で教育制度が運営されていった。しかし、?思考力のある国民を養成する教育、?それを教えるための教師、というのは今の教育問題にそのままそっくり残っている。情報を開示せず、権益を確保し、国民には考えずに動いてもらうほうが効率がいいという考え方は、もはや通用しなくなってきている。思考とその結果をコミュニケートすることが大切であり、思考停止の素朴な人間をどうするかということが大きな問題となってくる。「思考停止」というのは今の日本のいたるところで起こっており、教育は子供の問題というよりも、思考停止している大人の問題というほうが適切なようだ。大人は学校に行かないので「文化」で思考停止を解除するしかない、と宮台氏は主張してた。
ここで三者の議論がまとまってくる。つまり文化・芸術が日本ではありがたいものとしてまつられる傾向にあるが、そうではなく身近な文化・芸術に触れることで思考停止状態を解除していかなければならないのである。そのためには演劇的コミュニケーションがとても大切になってくる。演劇はあくまで虚構だが仮にその立場になったらどうするかというシュミレートができる。演劇的なコミュニケートをいかに展開してゆくか?宮台氏の自殺の演劇的ワークショップや平田氏の大人を交えた演劇的ワークショップの例が紹介された。そしてこのような演劇的コミュニケーションの大切さに気づいている人・地域とそうでない人・地域では20年30年後に大きな差ができるであろうとのことだった。
文化は演劇でなくとも映画でも音楽でも学問でもなんでもいいと思う。常に外から新しいものを自分で取り入れていくことができるか。そして取り入れたもので新しいコミュニケーションを創出していけるか?このことは子供たちの教育のみならず、僕たちにとっても大きな問題であることは変わりない。非常に面白かったし感銘深かった。

本屋を探してもおいていなかったので、会場で『「リアル」だけが生き延びる』(That's Japanシリーズ012・平田オリザ著)を購入した。