映画『千年女優』鑑賞

9月14日に封切られた今敏監督『千年女優』を見た。この映画は2001年に完成、日本公開を前に世界各地の映画祭で上映され多くの賞を取ったらしい。平成13年度・第5回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞を「千と千尋の神隠し」とともに同時受賞している。
女優・藤原千代子は戦中の少女時代、偶然出会った反政府活動家に一目惚れする。 匿われた部屋に射す月の光を見て反政府活動家の男(鍵の君)は千代子にこう言う。「僕は15日目の満月より14日目の月のほうが好きだ。15日目の月は次の日から欠けてしまう。でも14日目の月には、明日がある。明日という希望がある。」と。しかし男は追われる身のため、「一番大切なものを開ける鍵」を残し姿を消してしまう。現実にはなんの手掛かりもなく男を追えない。 だから千代子は虚構(映画)の中で男を追いかける役柄を時代を超えて反復する。千代子は自分の「14日目の月」を満たすため、もう一度「鍵の君」に会うため、男を追いつづける。役の中で、現実の中で、「いつかきっと」と念じながら。
「欲望は、自己を欠如として、他者を充ちたものとして構成する。 前者に後者を希求させることによって、外部である他者から資源を内部に摂り込む、という機能を持っている。 このメカニズムは、長い遅延と迂回の路上で、他者の場所を常に充ちたものとして、自己を欠如態として構成してしまう危険をはらんでいる。 いつかどこかにあこがれて、山の彼方に理想を追い求め続ける求道者は、多分それ自体合理的なこの欲望のメカニズムの犠牲者である。」という考え方がある。そして、無いものを追い続ける者は追い続けること自体が目的となってしまう。 千代子は、鍵の君は、「14日目の月」の希望を信じるものは果たして「欲望のメカニズムの犠牲者」なのだろうか?
しかし、僕は次のようにも考えたい。「たった一瞬でもいい。魂がその底から打ち震える至高の瞬間を体験できたなら、他の一切がただ無意味にくり返されるのだとしても、人生のすべてを肯定できるはずだ。(F.ニーチェ)」と。 そう、「あのとき」確かに「至高」は存在したのだ。たとえそれが錯覚であったのだとしても。 現実が「至高」の記憶を風化させるのならば、虚構の中で風化に抗する。虚構の中で「至高」の記憶を維持する。 宮台真司はこれを「現実に敗北せずに矜持を維持する最後の方法ではないか」と述べる。
おそらくこの作品は、ここに挙げた二つの価値観(「欲望のメカニズムの犠牲者」と「『至高』の記憶の維持」) のどちらに重きを置くかによって180度評価が変わると思う。そしてそれはこの作品を観る者の実存の物語でもある。