藤原帰一氏+金平茂紀氏トークショー「映画のなかのアメリカ」 参加

映画のなかのアメリカ青山ブックセンターで開催された藤原帰一氏の著作『映画のなかのアメリカ』出版記念のトークに行ってきました。対談相手の金平茂紀氏はTBSの前ワシントン支局長で現報道局長の方。お二方ともアメリカ滞在経験があり無類の映画好きとのことで「映画のなかのアメリカ」について存分に語られていたように思います。


※要注:以下のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。


『映画のなかのアメリカ』は雑誌・論座において藤原帰一氏が(アメリカ)映画を語った2004年10月号から2005年11月号までの連載をまとめたものだそうです。映画が何を語ろうとしているのかを読み解こうとする伝統的な「テーマ批評」の手法を用いられているとのことで、政治史・外交史だけではわからないアメリカの姿を映画を通じて書いてみたかったそうです。政治学者は偽の姿で(!)アメリカのことを考えるときに映画を通して考えていたことを再認識し幸せな気持ちで書けた、とも仰っていました。


藤原氏が連載でハリケーンカトリーナの災害について語るときに、スパイク・リー監督の映画『ドゥ・ザ・ライト・シング(Do the Right Thing)』を引用されたそうです。例えば留学生や特派員ジャーナリストが会えるアフリカン・アメリカン(=「黒人」)はミドルクラスに参入できている・ある程度教育水準が高いという意味で、黒人の中のマイノリティであり、ニューオーリンズで被災した黒人たちは日本からは見えにくい「もうひとつのアメリカ」であり、日本人は「差別されて可哀想な人たち」あるいは「いつも犯罪に走りがちな危ない連中」という以上の眼差しを持ち得ていないとのこと。スパイク・リー監督はそれ以上の黒人コミュニティに対する目線の幅広い表現を為すとともに黒人の主張の先鋭化したものの一形態としてアメリカ社会での毀誉褒貶が激しいそうです。
その観点から、今年度アカデミー賞作品賞の人種差別・偏見を扱っている映画『クラッシュ』を見ると、今のハリウッドが扱いうる人種差別表現でかつスパイク・リー監督のように先鋭化したものとは扱われない境界線をよく示しているとのことです。映画の中で、政治家・アジア系移民*1・犯罪を犯す(スパイク・リー的世界の)黒人青年たちはあまり細かな内面が書き込まれておらず、白人社会でポジションを得ているが差別を甘受せざるを得ない黒人プロデューサー夫婦や貧乏な白人で差別主義者の警官や政治家の妻(=女性)は詳細に内面が描かれているという区別にハリウッド映画が描きにくいものが現れているのではないかとのことです。だから対抗馬と言われていた同性愛(の直接的な描写)を扱った『ブロークバック・マウンテン』はアカデミー賞をとれなかったのもそれなりに頷けると。

2004年の大統領選挙に関して重要だった映画は、リベラルな大学人がほとんど全員見てブッシュが嫌いなあまり映画としても評価してしまったマイケル・ムーア監督『華氏911』ではなく、あまり残酷にイエスの処刑に至るまでのシーンを描いたためユダヤアメリカ人から反発の声が上がったメル・ギブソン監督『パッション』であり、前者は日本でも報道されるも後者がアメリカで大騒ぎになっていたことはほとんど伝えられていなかったそうです。

人種問題についてはっきり描かれているのがD・W・グリフィス監督『國民の創生』で、今のアメリカを見る上でも重要な作品であろうとのこと。南北戦争で敗れた南部の白人を美化し、北部の成金が威張り解放された黒人に蹂躙される南部の醇風美俗を描いており、政治的に急進的な立場をとっていると見られがちだが、「敬虔で純潔を守る美徳を持った南部」という南部の視点から見た南北戦争や黒人に対する見方が今のアメリカを考える上でも参考になるだろうとのことです。

戦争とアメリカ映画の系譜は興味深いものだそうで、第一次大戦までは国内の西部劇という正義の戦争と対外的な孤立主義の下での対外戦争の現場の不条理を描く(代表作として『西部戦線異状なし』)というダブルスタンダードで描かれていたそうです。
アメリカの戦争を「正義の戦争」と位置づける原点は第二次世界大戦ナチス・ドイツとの戦いの最中・後のことだそうで(代表作としてその後ドイツ人のステレオタイプ像になる杓子定規で融通の利かないキャラクターが登場する『カサブランカ』)、第二次大戦後に戦争映画がジャンルとして確立したそうです。
しかしベトナム戦争は正義の戦争としては描かれず、戦争が与えた社会の変質をとらえた映画として金平氏は帰還兵の狂気が描かれたマーティン・スコセッシ監督『タクシードライバー』、藤原氏は男娼を描いた『真夜中のカーボーイ』を挙げられていました。

第二次世界大戦の明確な敵として描かれたナチスドイツに対して、日本にはある種「横並びの人間ではない」という偏見があるとのこと。アメリカ人が考える日本人の描き方の表れとして、アメリカ人のドラマを描くための「背景としての日本」を(ある種正直に)描いたソフィア・コッポラ監督『ロスト・イン・トランスレーション』、ありそうもない日本を過剰に捏造した『ラスト サムライ』をわかりやすい例として紹介されていました。
藤原氏によると『ロスト・イン・トランスレーション』のアメリカ人が日本人の英語発音や話題を(ある種バカにして)奇異に見る目は帰国子女が日本人を見る目とほぼ同じであり、自戒を込めた意味で複雑な気分になるとのこと。

アメリカ映画には偏見を持った人をそのまま捉える伝統があり、批判や克服対象として見るよりもなぜ偏見を持ちうるのかということをしっかりと見たいと藤原氏は仰っていました。アメリカでは一つのエスニック・グループの国民国家でないため「何がアメリカなのか」ということを絶えず問い返す契機が働き、メインストリームの映画の手法では観客を集められなくなる時期が何度も登場し、それまでインテリしか見向きもしなかった手法が取り入れられたりして表現が変化することがあるとのこと。今のハリウッドの社会派路線を自己欺瞞的とみなすこともできるそうですが、アメリカ社会の多数派の語りがずいぶん揺らいできているとも見えるとのことでした。
紹介された映画も馴染み深いものばかりで非常に理解しやすくかつ様々な発見のあったトークでした。


※要注:以上のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。

追記:2006-04-24

id:kaikajiさんからコメントおよび『映画のなかのアメリカ』のちょっと厳しめの書評をご紹介いただきました。

id:kaikajiさんの映画『クラッシュ』の感想。

また『映画の中のアメリカ』の作製に関わられたid:SomeCameRunningさんにTBをいただきました。
実は会場では以下のリンク先に書かれているような、マイケル・ムーア監督の好きな日本映画が原一男監督『ゆきゆきて、神軍』であるとか、サウスパークの「CHINPOKOMON*2*3」とかいろいろありました。