id:sarutoraさんへのお返事

id:sarutoraさんより僕のエントリー「内田樹氏のエントリー「不快という貨幣」関連の言説は「俗流若者論」か?」について意見いただいたので応答しようと思います。

sarutoraさんのご意見は以下のようにまとめられるでしょうか。

  • 1.kawakitaは「贈与」と「等価交換」「労働」を並列に並べて「交換」の一種としてとらえている。そもそも「贈与」は「対価」や「交換」といったことと根本的に相容れないものであり、kawakitaがやったような同じ空間でグラフ化して示せるようなものではない。
  • 2.kawakitaの解釈によると、「内田さんは『労働は贈与である』などとは言っていない、内田さんは『労働とは常にオーバーアチーブメントの非等価交換である』と言っているにすぎない」といっているが、とするなら、内田氏の思考は「交換」を基礎とするこの社会の枠組みの中で議論していることになる。
    • とすると、①「贈与」という概念をあらかじめ「非等価交換」(つまり結局は「搾取」)という概念に歪曲した上で、「労働とは贈与である」と主張していることになる。
    • ②「贈与」と根本的に相容れない非等価交換の契機を、「贈与の契機」として「贈与」という言葉を用いて表現してしまっていることが問題。
  • 3.「贈与」を逆に「従属すること」に歪曲し、その上で歪曲された「贈与」を称揚している。一見資本主義社会と、等価交換原理を批判しているように見えながら、結局は、資本主義のシステムを肯定し、擁護している。「贈与の契機」が、システムに回収され、「贈与の搾取」のシステムを補強している。


sarutoraさんの仰る

贈与は、http://f.hatena.ne.jp/kwkt/20060314180005にあるように、「等価交換」や「労働」と並べられ、同じ空間でグラフ化されるようなものではない

というのは正しいです。僕のやり方は「贈与」を交換におけるモノの移動の静態分析とした交換一元論になっている、と。レヴィ=ストロースは広義の「もの」の場所的移動・移転のみに着目し、相互性(交換のこと)システムは諸現象の間の恒常・不変の関係であり「数学化」が可能になると言っています。これは「贈与」と「交換」という位相の違う現実を括弧に入れるあるいは削除するにひとしい誤りであり、それを僕もやってしまっているということですね。あえて理解しやすくするために行ったなどという反論はいたしません。むしろベタに数学化してしまったと申しましょう*1
しかし数学化して同じグラフの上に並べてみることで、

  • 等価交換の観点から見ると贈与と非等価交換は違う
  • 等価交換の観点から見ると、贈与は合理的でない
  • 等価交換の観点から見ると、同様に、労働も非等価交換であり合理的ではない

ということが判明するのではないでしょうか。つまり、「非等価交換」も、「等価交換」とも「贈与」とも異なった平面にあるものと言えるということです。労働が面倒なのは、建前上「労働力を提供してその対価を得るという等価交換」として認識されているのに対して、実体は「労働力から生み出された価値がその対価を常に上回るという非等価交換」であるということです。これも等価交換の原理を徹底させてみると不合理です。
sarutoraさんは

「非等価交換」(つまり結局は「搾取」)

と書かれているように、「非等価交換」は「搾取」であると仰っておりますが、僕は「搾取」は「非等価交換」であっても、「非等価交換」一般は必ずしも「搾取」ではない、と考えます。だから「搾取」が解決したら「労働」が等価交換になるとは考えません。労働力を全的に自家消費せず労働という形で社会に参集する限りにおいて「非等価交換」が発生すると考えます。資本主義であれ(内田氏の例にもありましたように)共産主義であれ、労働は等価交換が建前でありながら、本当に等価交換が徹底するとそのシステムがまわらなくなると考えます。とするならば、等価交換の観点からは不合理なのに、なぜ贈与がそれでも行われるのか(行われていたのか)という問いが立つと共に、なぜ労働がそれでも行われるのかという問いが立てられると思います。それが「贈与」と「贈与的」をわけるものであり、後者を示すために「贈与の契機」という言葉を用いました。だから労働の成立契機とそれが回るために必要な条件と、その条件が規範として強制的にもとめられることや労働条件・労働環境の問題を考えることは別だと考えます。


あといくつか質問してもよろしいでしょうか。恐らく以下のエントリーについてのことだとおもうのですが

sarutoraさんは

一見資本主義社会と、等価交換原理を批判しているように見えながら、結局は、資本主義のシステムを肯定し、擁護しているのだ、ということです。

と書かれておりますが、内田氏がどこで「資本主義社会」「を批判している」か教えていただけますでしょうか。僕にはどこか検討がつきません。また「資本主義のシステムを肯定し、擁護」することと搾取や労働条件・労働環境が悪いことを容認することは同じことなのでしょうか?僕は資本主義社会における搾取や労働条件・労働環境を問題化することで、労働の成立契機を説明する言説まで否定する必要はないし、「資本主義のシステム」も否定する必要はないと考えております。


あとsarutoraさんは

内田さんは、労働しない若者を批判します。

と書かれておりますが、僕は内田氏の若者の言及について「現代の社会環境への適応形態が表面的に異なって見えるだけではないか」と書きました。ですので具体的にどこで批判しているか教えてください。内田氏の文章が若者を他者化しすぎていて読む側も若者を他者化しすぎてしまうというパフォーマティブな効果が発生する可能性がある、というのであればわかりますが、具体的にどこでどういう「批判」をしているのでしょうか?


ご回答いただけますと幸いです。

*1:この方法もまったくダメというわけではなく一応有効であるとはされています。