『ネット社会の未来像』出版記念まる激トークオンディマンド公開収録 参加

ネット社会の未来像池袋西武のイルムス館8F(コミュニティ・カレッジ)にて行われたビデオニュースドットコムの250回記念兼書籍第3弾『ネット社会の未来像』発売記念の公開収録に行って参りました。


※要注:以下のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。


最近のBLT問題(B:BSE・防衛庁官製談合、L:ライブドア、T:耐震偽造天皇)にみられる現象は、今後の日本社会をどのように運営していくかが問われており、以下の二つの方向性があるとのこと。

  • ルールを明確化しそれに合意するかしないかという踏絵を踏ませ、ルール内では自由に振舞うことができる社会
  • ルールは明確化されていないが信頼やコモンセンス、紳士協定を維持することで成り立つ社会

かつての日本は紳士はおらず自由はないがあまり公共性も期待できない「田吾作協定」であり、現在はアメリカのような自由が認められたがルールや認識が伴っていない状況であるとのこと。日本はなんでも個人の選択に責任を帰属させていくやり方では社会がまわらないので、今回の議論では

  • コーポラテリズム(利害関係者による協調・調整体制)を腐敗の温床・停滞の原因として取り除くことによる副作用とそれを埋めるための代替的機能をどうするか。
  • またはコーポラテリズムを続けるとして腐敗・停滞しないためにどのような機能・条件が必要か。

ということが議論されていたように思います。
また近代成熟化に伴うリスクが偏在化した社会では、危険(とともに便益)を除去することが公共性ではなく、便益に付随する危険についての情報へのアクセスをよくすることで個人が選択(リスク考量)できるシステムを維持することが公共的となるとのこと。しかしここにも「自由の増大」と「個人の選択への責任帰属という負担過剰」が発生。


今後どうすべきかという問いに対して、宮台氏の回答は「とりあえず個人に過剰な負担を負わせず、コーポラテリズムで腐敗・汚職とつきあいながら、コーポラテリズムに守られながら行くしかない」とのこと。
それをうまくまわしていくための原動力として宮台氏が提示されたのが、なんと「パターナリズム(父権的温情主義)」。相手が喜んでいなくてもいずれ感謝するという方便で何ごとかを強制するのがパターナリズム。日本の明治維新以来の近代化の要であり、パターナリズムによって公共的な動機付けも調達されてきており、これを変えること・何かに代替させることはすぐには困難で、パターナリズムをいい方向に機能するようにするしかないと提言されていました。
これまでいろいろな先生や様々な方から「恣意性には気をつけなさい」「善意の行為の意図せざる結果に敏感に」と習ってきました。それらに最も鈍感なのがパターナリズムであると思ってしまっていたのですが、まる激で最近出てくるコーポラテリズムの例と同じで、パターナリズムが果たしてきた機能を「恣意的だ」と言って取り除くことでいっしょに何が失われるのかということを考えることに慣れていなかったのだと思います*1。コーポラテリズムはそれに対する自己責任が重視され過剰な流動性の下で弱者淘汰が発生する社会と比べるとよりマシなのかなと実感できていたつもりなのですが、パターナリズムについては条件反射的に拒否反応を示す潔癖症が残っていたように思いました。
もちろん復古的なコーポラテリズム、パターナリズムを無条件に肯定することも出来ず、それらを腐敗させないために絶えず吟味(=参加によるチェック)される契機も必要ということだと思います。その上での「あえて」するパターナリズムはそれなりに肯定されるべきなのかなと。善意で進んで、こけて、気付いてという螺旋を昇ってこそ立派なオトナになれるのかなぁ(笑)なんて思ったりしました。


※要注:以上のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。


今後まる激で「パターナリズム」と「エリート主義」についてテーマとしてとりあげるとのことで楽しみです。

トーク終了後、神保・宮台両氏に書籍にサインをいただけるとのことで『ネット社会の未来像』にサインをいただきました。神保さんに以前の番組企画で抽選のマグカップをいただいたことを報告できましたw

*1:これこそ見事に「善意の行為の意図せざる結果に敏感」でない証拠ですね・・・。