赤坂真理氏×宮台真司氏対談「列からの逸脱?都市に生きる心身の変容」参加

東京資生堂銀座ビルで開催された赤坂真理氏×宮台真司氏の対談「資生堂WORDワードフライデイ「れ」・列からの逸脱?都市に生きる心身の変容」にお友達と行って参りました*1
東京資生堂銀座ビルの9Fにトークイベント専用の整然とした空間がありこれまでも様々な方がお話をしてきたとのこと。客席は50名程度の規模で資生堂だけあって8割方女性でした。


※要注:以下のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。


内容はセクシュアリティを軸に他者性をどう考えていくかということが話されたように思います。宮台氏がご自身のセクシュアリティとして(想像的に)相手の中に入り込んで相手が快感に感じることを快感と感じる「マゾ的サド」という例を出され、他者性を媒介とした(相手が感じている事を想像的に感じる)関係の重要性と、現代におけるそれらの機能不全(=動物化)による「人間」概念の変容、人間と非人間・まともと異常の境界線の曖昧さを解説されていました。
赤坂氏は現在角川書店の雑誌・野生時代*2で連載中の男の子の魂が女の子(という他者)に入り込んでしまう小説のモチーフについてや宮台氏の分析に対しての個人的な感覚・体験のお話をされていました。興味深かったのが、宮台氏の「マゾ的サド」からしても想像が難しいという女性×モンスターという妄想はなぜ女性には可能なのかという問いに対して、女性は目を閉じるから感触で世界の全体像を想像することになるのでその世界把握はキメラ的なものになるので男性であれ「何であれ」想像可能なのではとのことでした。またご自身が若年期に世界に対して過剰適応することで自分を閉ざしていたため当時の「記憶がない(乖離してしまっている)」とのことを仰っておりましたが、それはどういう感覚なのだろうと(余人には無理でしょうけど)想像させられました。作品・作風とも何らかの関係があるのでしょうか。


トークでは基本的に赤坂氏が個人的感覚・経験から質問・意見し、宮台氏がそれに対しての(社会学的な)分析・見解をトークの展開を計算・配慮しながら回答するという形だったように思えます。話量にすると7割方宮台氏がお話していたので外面的には宮台氏主導でトークが進んだように見えましたが、赤坂氏はご自身の感覚・経験と宮台氏の話がどのように繋がるか・それが腑に落ちるかという観点から素で(通常感覚で)発言・質問されていたので、後半になると話量にかかわらず赤坂氏主導トークが進んだようにも見えました。つまり(主)宮台氏が自分が話したいことを話しているようでいて、(従)赤坂氏に聞いてもらうため納得してもらうためトーク全体を方向付けるため話をするという転倒というか転換が起こったのを見たような気がしました。つまりトークにおいても「マゾ(従)的サド(主)」「他者性を媒介する関係」を実践されていたように思えました。


※要注:以上のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。


宮台氏がセクシャリティの話をされたのは久しぶりだったそうです。また赤坂真理氏の人物像が大変興味深かったトークでした。

*1:お友達は遅れての参加でしたが

*2:http://www.kadokawa.co.jp/sp/200310-02/index.html