松浦寿夫+岡崎乾二郎+浅田彰+岡田温司『絵画の準備を!』刊行記念座談会 参加
青山ブックセンターで行われた『絵画の準備を!』刊行記念の松浦寿夫氏、岡崎乾二郎氏、浅田彰氏、岡田温司氏の四氏による座談会を聞いてきました。
※要注:以下のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。
まず浅田氏が、『絵画の準備を!』の推薦文にもあるように、
- 絵画(美術)に普通は準備などいらない、理論とか批評は無用であり、真っ白なキャンバスにあるいは作品に虚心坦懐に向かい合うことが最も自発的な創作であり鑑賞を可能にする、という理論・イデオロギーが存在している。
- 無自覚にそれに従うと結果的にはそのときの支配的なイデオロギーのコードを無批判に再生産してしまう。むしろそのようなコードを排除して「白いキャンバス」にたどり着くために、いろいろな意味のレベルを削ぎ落とすための行為が「絵画の準備」である。
との問題提起をされ、各氏のトークが開始されました。
テーマは「アクチュアリティと時間」というものでした。以下に僕がある程度理解できてメモできたことを紹介いたします。トークではこれ以外に遥かに多くのことが話されたことを記しておきます。あと会場で紹介された画像をネットで探しましたがすべては見つけることが出来ませんでした。
岡崎氏の発言で印象深かったのは以下のふたつ。
- イメージとはそれ自体は存在せず時間や空間に定位できないものであり、しかし我々はイメージによって時間や空間を把握している。
- 何かを描くことは、現在を繋ぎとめているのではなくて、過去や未来など他に関係する時間を繋ぎとめているものであり、その中に織り込まれたものをどう読み解くか。
以下の二つのリンクには、会場で紹介されたものではありませんが、同趣旨の写真が掲載されておりますのでご覧ください。
- 空間のシネマトグラフィ 第2回 未来派をめぐって
http://www.geijutsu.tsukuba.ac.jp/~uzawatak/genko/cinema/cinema2.html - The Perfect Medium の写真の一例
The Metropolitan Museum of Art Special Exhibitions: The Perfect Medium
http://www.metmuseum.org/special/Perfect_Medium/images.asp
またポートレートも、そこに写っている人物のその後を知っていると、写るときには到来していない未来(別の時制)が読み込まれてしまうとのこと。
- 例1:ある写真家が妻といっしょに写っている写真が紹介されたのですが、その妻はのちに自殺してしまったとのことで、我々はその事実を知っているので写真に写っている妻の視線に何か特別なものを読み取ってしまうとのこと。
- 例2:また小説家・カフカの少年時代の写真が紹介され、冒険的な男の子に育つようにとエジプト風の妙な衣装を着せられ怪しいセットの前に立たさたカフカ少年はカメラのレンズではなく別の方向を見ていました(当時はカメラ目線は存在しなかったとのこと)。結果的にカフカは小説家になり、そのことを知っている僕等はその視線をそのように意思しているように見てしまう。
- カフカの少年時代の写真
http://www.stoewsand.de/Bilder1.htm
(ページ右上「ca. 4 - 5 Jahre alt」の写真)
- カフカの少年時代の写真
つまり僕等が見ているのは「現在」という一面だけはなく、(運動写真のような)部分に還元しても全体を把握できない連続体としてのイメージであったり、描かれたときの現在とその過去と未来の連続体としてのイメージだったりするという話をされていたように思います。
松浦氏の発言で印象深かったのが、絵画の(神話的)起源の話でした。会場で配布されたプリントの絵画で、「羊飼いが自分と仲間の影をなぞる画」と「出征する男性の影を壁に描く女性の画」がありました。絵画の起源は「影をなぞる」ことであったであろうとのこと。
そして「誰が誰の影をなぞるのか」というのが大問題で、ほとんどが画家(他者)がモデル(自分)の影を描くというもので、これは自らの輪郭をなぞる(描く)ことは不可能であることを示しているそうです。自らの影を自らで書くことの不可能性は以下の二点で説明されていました。
- 空間的解釈:描く行為が描く対象を変貌させてしまう、画像としての自己完結性を失わせる、影と足元(実体)の切断点はどこにあるのか
- 時間的解釈:描く行為が描くべき画像を産出してしまう、描く行為が描く対象に常に遅れる。
絵画の原初的形態に、絵画が「既に常に遅れること」が記述されているそうです。
写真機を使えば影を描く絵画の不可能性は可能となるかという問いから、遅れの削減という次元でテクノロジーは進んでいったと仰っておりました。写真やデジカメは単一の現在時を志向しており、絵画は(岡崎氏の言にならえば「描かれたもの(写真を含む)」は)複数の時制の孕みうるとのことでした。
お二人とも、現在の観点からの「過去」「現在」「未来」だけでなく、過去にも「過去の過去」「過去の現在」「過去の未来」が存在しておりそのポテンシャリティを読み解くことの必要性を語られていたように思います。
その後、トークは続き、カラバッジョ、マルセル・デュシャン、ポール・セザンヌ、アンリ・マティス、ロベルト・ロンギ、ジョルジオ・モランディ、アンドレ・ドラン、ジャン・コクトーなどの画家の膨大な話がなされましたが、悲しいかな僕に美術・美術史の素養がないため、はっきり言って理解できたとは言えませんでした。もっと勉強が必要なことを感じさせられたトークでした。自分には味わうことのできる領域が無限なまでに広がっていると思うことで前向きに学んでいこうと思います。
※要注:以上のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。