高橋哲哉×萱野稔人トークセッション参加

国家と犠牲最近、「主張には同意できるけれど論理に危険性を孕む」とか「生き生きしすぎている」とか「デリダを読まなくてもあれは主張できる」など、(僕が)最近あまり芳しくない評価を見聞きした高橋哲哉先生のお話をジュンク堂池袋本店にて聞いて参りました。
対談相手の萱野氏は、萱野氏がパリ留学していた時、高橋先生がパリを訪れる度に会う仲だったとのことです。
トークでは現在起こっていることを起点に、近代国民国家の成り立ちや前提としているものを振り返った上で、様々な評価を下されていました。現在起こっていることと国家と宗教の問題、犠牲の問題の関連を認識することが出来たように思います。


※要注:以下のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。

国家の装置としての靖国神社

  • 10月17日*1靖国参拝について小泉首相は「思想・信条の自由」と主張。またこの事実を追認しようとする自民党の新憲法草案は「思想・信条の自由」の位置づけを国民の「思想・信条の自由」から国家の「思想・信条の自由」へと反転してしまうことになるかも。
  • フランスにおられた萱野氏によると、似たようなことはフランスではスカーフ論争として起こったとのこと。もともと共和国の政教分離の法則とは「誰がどんな信仰を持っていても国家はこれに干渉しない」というもの。それが公共の場からイスラムのシンボルを排除する形に反転利用されているらしい(十字架のペンダントは問題とされない)。
  • 靖国神社のシステムは明治近代国家の成り立ちやその後の暴力(戦争)を宗教的・神学的に正統化していく役割を果たしたとのこと。
  • 敗戦後、靖国神社は民間の一宗教法人となることで国家との関係が絶たれるはずだったが、60年代までは首相や天皇が普通に参拝していたらしい。新憲法政教分離が定められたが、要人の靖国参拝が問題であるという意識が日本社会にはなかったとのこと。初めて問題であることが意識されたのが、自民党が69年に靖国神社国家護持法案を最初に国会に上程してから。軍国主義の復活の懸念や宗教界の反発もあり数度上程されるもすべて廃案となった。この過程で政教分離がどういう意味を持っているのかということが初めて国民レベルで意識された。
  • 戦後の国家のあり方が再度転換され、政治システムの中にもう一度国家神道の息を吹き込もうという流れが一部にある現在、国民の間でも何が問題なのか意識されていないままの状態になっている。

政治と宗教の関係

  • 政教分離とは政治の決定プロセスから宗教的なものが分離されていくということ。世俗的権力が教会とは独自の決定を行うようになったのが国家の「主権」の意味。社会契約論は宗教的権力の基礎付けが消えたのちの正統性を基礎付けるためのもの。
  • 近代以前に人々に犠牲を要求するものは宗教での神のための「殉教」。近代国家になり宗教と分離されると、そこで人々に犠牲を要求するのが「国家」「国民」という抽象概念。
  • 国民国家はそこに住んでいる人々(=国民)を、歴史上ずっと存在してきてこれからも永遠に存在すると共同体を永遠化する。国民国家を形成するときには歴史を超えた言語的・地域的同一性が要求される。「国民」の観念には永遠のものへの「犠牲」が中核にある。

政教分離の評価

  • 政教分離はヨーロッパの歴史的伝統から入ってきたものなので、日本の宗教や伝統になじまないという声がある。そもそも欧米においても徹底されているわけではないので金科玉条とすべきではないという意見が根強い。
  • しかし日本ではGHQの指令とはいえ政教分離が導入され国家神道が否定されないと天皇主権が否定されず国民主権になりえなかった。これが信教の自由を制度的に保障することと繋がっている。
  • 信教の自由は特定の宗教を信仰する自由だと思われがち。無神論者・無宗教者には関係ないと思われがち。しかし政教分離を導入しなければ日本の歴史では国民主権・民主主義が成り立たなかった歴史的背景があり必要な原則。

犠牲の論理は超えられるか

  • 犠牲は具体的な人間関係の間でも抽象的な関係の間でも起こりうる。人間はいつか死ぬ存在であり、自分は偶然に存在しただけで生きている意味があるのか無いのか不明という事実がある。犠牲になることで自分の命の意味が発生し(たと思え)偶然性から解放され、自分の存在の必然性を確認できる。
  • これは人間が社会的に生きるということに孕まれていること。ただ具体的人間関係で必然性を実感して生きていくことと抽象的な政治機構の中で犠牲を強いられることは分けて考えるべき。
  • 日本の15年戦争において日本軍の死者は戦闘による死とともに餓死が大きな要因となった。無駄死にする存在とともに体制の中で甘い汁を吸っていられた存在がいた。政治機構の中で犠牲を強いる者と強いられる者がいるという非対称性を問題とすべき。
  • 自らを国家の犠牲にするということが、日本の犠牲よりもはるかに多い犠牲をアジアに与えることとなった。国家への自己犠牲が他国に膨大な犠牲を生み出した。「犠牲」の一般性と特殊性を行きつ戻りつ絶えず考えていく必要がある。

※要注:以上のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。


先日の稲葉氏×立岩氏のトーク*2を聞いていても感じたのですが、世の中には議論の前提が踏まえられていない反応が多数あるような気がします(もちろん僕もその中に含まれます)。前提を踏まえず目の前のことに反応してばかりいては状態は悪くなるだけのような気がしてなりません。今回のトーク目から鱗がたくさんありました。

*1:実は10月17日はA級戦犯が合祀された日

*2:http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20051127#p1