稲葉振一郎×萱野稔人トークセッション参加

「資本」論三省堂本店で開催された『「資本」論』刊行記念の稲葉振一郎氏×萱野稔人氏のトークセッションに参加して参りました。テーマは最近刊行された稲葉氏の新刊『「資本」論』および萱野氏の著作『国家とはなにか』に関連して「国家と所有」「所有と交換」「搾取」など。


※要注:以下のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。


「国家と所有」については、権利としての(占有とは区別される)所有権が成立するには国家(権力関係)の存在が必須という前提ながらも、「暴力に関わる一つの運動態(by萱野氏)」である国家(力が非対称的な垂直的関係)が存在して初めて所有が確立するという考え方と、社会契約論で前提とされているような所有を自力で確立させている個人(力が対称的な水平的関係)が所有を安定化させるために国家を設立したとする考え方の対比から議論がなされた。
ロックの社会契約論などが前提としている水平的関係な個人とは、土地を所有している「家長」のような存在であり―家長の下には使用人・奉公人がいたり家族・親族がいたりすると考えられ―「水平的関係」の範囲は限定されており、「垂直的関係」が社会に存在していないとは言えないこと、およびここでの「所有」とは「所有すること」と「支配すること」が不可分であったと考えられるという稲葉氏の指摘が参考になった。


「所有と交換」については、市場で交換が発生するためのメカニズムについて議論がなされた。『「資本」論』にも書かれているように、交換はただ両者がモノをもっているだけでは発生せず、「比較優位(=交換したほうが得)」が成立しなければ起こりえないこと、しかし市場での交換の発生起源は「原始的蓄積・余剰の発生」⇒「市場での交換」というモデルではなく、「贈与」や「収奪」による差異の発見があったからではないかということが話された。


「搾取」については、市場での(労働力を含む)モノの交換においては、市場での交換では交換主体同士の比較優位で行われるため搾取は起きず、ただ有利な(効率のよい)交換と不利な(効率の悪い)交換の「格差」が存在すると考えられるのではないかとのこと。とすれば一般商品の売買交換においても商品の価格は原価に加えて(再生産するための余剰としての)利潤(=搾取?)が存在するのだから、労働力だけ「搾取」が起きている(だから「取り戻せ」)と考えるだけでは問題は解決しないのではないかとのこと。


稲葉氏は農業・工業の生産力の向上とそれに伴う歴史的な人口構造の方に着目されているようで、労働者階級とは、それまでの既得権を「奪われた人々」や対等関係にあったけれど「転落した人々」だけではなく、(産業革命を代表とする生産性の向上)以前までは子供を作らなかった層が子供を持つようになったけれども相続する土地や財産がないという意味で「用意がないのにこの世の中に放り出されてしまった人々*1」ではないか、つまり「奪われた人々」ではなく「そもそも持っていない人々」ではないかとのことで、(これまであまり一般的ではなかった?)そういう前提を踏まえた政治哲学なりが構想できるかもしれないとのこと。


それが新刊『「資本」論』で展開されている、資産としての「労働=人的資本」の定義であり、ゆえにロックの社会契約論が構想していた(土地という)資産をもつ「市民」からなる自由権・財産権が保障された市民社会から、社会の構成メンバーの範囲を広げるために(該当しない層を無視・放置しないために)、労働者も「人的資本」という―資本を持っているのだから護持されるべき市民権を持ち得るという―擬制を設けることで、自由権・財産権を保障する根拠と同じように「人的資本」を(最低限)保障するという意味で社会権を―通常考えられがちな「恩恵」的意味とは違った形で―基礎付けていると考えられる。


これらの考え方を叩き台に、以下のように様々な議論がなされている。

トークについて書かれていたblog

*1:ここだけ単体で読むと誤解を招きそうですが(トークを聞いているときに僕は勝手にドキッとしてしまったのですが)、僕の頭での解釈の限界もありますので、簡単に反応せず注意してください。