NHK番組改変問題・教訓を憶えておこう

報道されている事が事実かどうかは別として、今回の問題から得られる教訓を憶えておこう。
まる激トークオンディマンドでの宮台氏の放送法に関しての発言。

放送法には確かに二つ柱があって、政府の介入を許さないという側面とバランスを欠いた政治的主張を認めないという部分がある。どちらが本義かといえば、政治的介入を排除するということ。そして、政治的介入を排除した上で、価値観を主張してもらうということはかまわない。」

放送における「中立」とは

  1. 統治権力の介入を許さない
  2. バランスを欠いた政治的主張を行わない
    • 「政治的介入を排除する」ということを優先

同様のことを内田樹氏はさらにわかりやすく語っている。

中川は「NHKの視聴者には番組で報道される言説の適否を判断する能力がない」ということを前提にしてしゃべっている。
これは民主国家の政治家がその政治活動の前提に採用してはならない社会観である。
中川は、「視聴者はバカだから、メディアがどんなことを報道しても、それを無批判に受け容れてしまう。だから選択的に『正しい』ことだけを報道させるように、私は監視しなければならない。それが政治家としての私の仕事の一部だ」と考えた。
「視聴者はバカだ」ということについては中川に近い判断を持っている人も多いだろう。
私も率直に言って、日本国民のメディア・リテラシーがそれほど高いとは思っていない。
視聴者は公共放送が発信する政治的に「偏向」したメッセージをそのまま頭から信じてしまうということも大いにありうるだろう。
しかし、「だから」以降については、私は同意することができない。
「選択的に正しいことだけを報道する」ということが原理的にありえないからである。
というのは、無数の無価値な情報、虚偽の報道、イデオロギッシュなメッセージの中から、何を聴き取り、何を「正しい」とするかを決定するのは国民ひとりひとりの不可侵の権利だからだ。
中川が「正しい報道」だと思うのは、「中川にとって正しい報道」であり、例えば「私にとって正しい報道」とは重ならない。

民主社会における私たちの人権は「誤り得る自由」も含んでいる。
「誤り得る自由」が認められず、「正解する自由」だけしか認められない社会というのは、人間が知的であったり倫理的であったりする可能性が損なわれる抑圧的で暗鬱な社会である。
そのような社会では、「正解」を語っている人間が、それを「正解」であると決定したときの手続きの適法性や妥当性について検証する権利は「誤りかねない人間」には決して認められないからである。