初めて獨協大学に行く
本当は行くかどうか迷っていたのだけれど、とりあえず獨協大学に行ってみた。
たまたま午前中に野暮用で半蔵門線・水天宮前駅まで行くことになったので、午後から半蔵門線を北上し、東武伊勢崎線に自動変更して、獨協大学のある草加の次の駅の松原団地というところへ向かった。またもや*1なんだここは、というカルチャーショック。駅につくあたりから周囲は昭和30〜40年代を思わせる*2団地、団地、団地だらけ。駅を降りて周囲を見回しても本当にデザインが同じ4〜5階立ての団地が辺り一面に区画されてあって、その中に大学がぽっつりとあった。これが首都圏のベットタウンということなのか、僕の故郷では見れない風景だった。
周囲の風景に驚きながらも、獨協大学創立40周年記念&カント没後200年記念講演会「現代に生きるカント哲学」を聞きに行った。
獨協大学創立40周年記念&カント没後200年記念講演会「現代に生きるカント哲学」参加
獨協大学にてカントの話が聞けるということで参加。僕は『純粋理性批判』も『実践理性批判』もというかカントの著作は直接読んだことがなく、神戸幼児連続殺人事件後に柄谷行人氏が出版した『倫理21』で簡単にカントの言説の一端に触れたぐらい。はっきり言って素人。ただ先日のThat's Japan 連続シンポジウム・こころ真論2 において宮台真司氏が『純粋理性批判』と『実践理性批判』の趣旨の相違を素人でもわかるように解説してくれたのもあり、今回遠方なので行こうかどうか迷っていたのだけれど、見切り発車。
講演のテーマは以下の通り。
- 「カントの故郷・私の故郷ケーニヒスベルク」ハンス・ハルトムート・ゲートケ氏(獨協大学教授)
- 「カントが難しいのは翻訳のせい?――哲学書の翻訳の問題」浅見昇吾氏(上智大学助教授)
- 「幸福と道徳善との関係――カントの根本悪の問題を手がかりに」中島義道氏(電気通信大学教授)
「カントの故郷・私の故郷ケーニヒスベルク」ハンス・ハルトムート・ゲートケ氏
正直言うと、ケーニヒスベルグという都市の歴史を僕はまったく知らなかった。カントの故郷として、ゲートケ氏の故郷として語られるケーニヒスベルグ(現・カリーニングラード)に強い印象を受けた。
- ケーニヒスベルグは東プロイセンの都市。
- カントはケーニヒスベルグで生まれ育ち、論理学・形而上学の教授としてケーニヒスベルグ大学に勤める。カントは他の大学から招聘を受けてもケーニヒスベルグから外に出なかったとのこと。
- ケーニヒスベルグの歴史
- 13世紀、ドイツ十字軍が東方植民によって建設された。
- ハンザ同盟に所属するバルト海の貿易都市として栄えた。
- 1525年にプロイセン公国の首都となる。
- 1701年フリードリヒ1世が戴冠を受けてプロイセン王国の首都となる。
- 領邦国家が統一され近代化が進められたときドイツ帝国のプロイセン州となる。
- 第一次世界大戦に敗戦後、ベルサイユ条約にてロシア・ポーランドに分割される。
- ナチス時代に奪回されるも、1945年ソ連・ポーランドに占領されてドイツの領地ではなくなる。
- 1944年にイギリスより爆撃を受けて破壊され、ドイツ降伏時にはソ連に占領される。
- 1945年の時点でケーニヒスベルグは90%近くが破壊された。1939年の人口が37万人、1945年4月の時点で2万5千人となる。
- カントの墓は奇跡的に残り、現在カント博物館になっている。
- 現在はロシアのカリーニングラード州の州都となっている。
- ゲートケ氏は1940年生まれ。
以前知り合いのドイツ帰国子女に「プロイセン」の話をふっても「?」って感じだったのだけど、その理由がわかった気がする。今はプロイセン地方はドイツではないのだから。
「カントが難しいのは翻訳のせい?――哲学書の翻訳の問題」浅見昇吾氏
浅見昇吾氏は(哲学書の)翻訳作業と翻訳のイメージについて語ってくれた。カントについて直接語るというよりは、翻訳を通して哲学を理解することの難しさを語っていたように思う。
- 翻訳ものは翻訳者によって全く違う。
- 翻訳という作業が活発になったのは幕末〜明治期。そのとき作られた訳語がいまだに使われている。「社会」「個人」「形而上学」「先験的」・・・。
- 「哲学」という訳語は、もとは西周が「philosophy」(sophia(智)をphilein(愛する))を「希賢学」⇒「希哲学」⇒「哲学」と訳した。
- 「形而上学」という訳語は、「metaphysics」(自然学(physics)のあとの書)という意味だったものが「形而上学」という訳になっている。
- 哲学書の翻訳が難しい理由は、以下のものがあるとのこと。
- 編集者の問題
- 翻訳者の問題
- 読者の問題
- 社会・文化の問題
- 編集者の問題
- 本を作るのは著者というイメージがあるが、編集者が大きな役割を果たす。
- 翻訳書の場合、編集者は、翻訳者とやり取りをし、翻訳の権利交渉し、印刷所・営業・マスコミとやりとりする。翻訳者の選定も編集者の仕事。
- 相手が学者の場合、編集者が(専門家ではないので)強く言えない場合がある。
- 翻訳業界の一部では、海外の子供・青少年向けの書物の翻訳が日本の女性にウケると言われている。
- 編集者が良い訳を見て「どこの辞書を使ったんですか?」と問う。原文の訳文は辞書の訳語と対応すると思っている。
- 外面的なこと(センテンスの数、原文のコンマの数と読点の数、原文の単語と訳文の単語の数が一致していること)をこだわる。
- 翻訳者の問題
- 翻訳者も外面的なことをこだわる人がいるが、それが本当に原文の意味を伝えることなのか?翻訳者は原文と訳文の表現のレベルで一致していればよいのではないか?
- 単語、文章、センテンス、段落のニュアンスをすべて伝えるとことはできない。特に特定単語の意味にこだわる人が多い(一単語入魂主義)。
- 柴田元幸「翻訳は愛の見切り発車」・・・訳者は泣く泣く一部を切り捨てて表現する。
- 受験英語のみならず、名詞を動詞的に、名詞句を動詞的に訳すのがポイント。
- 日本語は関係代名詞がないため連体修飾が長くなってしまうので、漢字を多用し翻訳者はすっきり満足するが、読者は読みにくい。
- 学者の翻訳は読者に目が向いていなく、同業者に目が向いていることが多い。
- 読者の問題
- 学術書だと難しいと思い、ひどい訳でも受け入れてしまう。
- 翻訳したからと言って誰でも理解できるものではない・・・ドイツ人ならみなカントが読めるのか?哲学は万人にわかるものなのか?
- 社会・文化の問題
- 哲学的な言葉には、幕末前の日本にはない概念を用いているので、訳語が定着しても意味を本当に把握できているかは不明。
- 定着していない言葉に勝手な自分のイメージを投影しがちになってしまう下地がある(カセット効果)。
- 言葉が違うということは世界観が違うということであり、単語と単語、文章と文章を1対1で対応させることではない。
「幸福と道徳善との関係――カントの根本悪の問題を手がかりに」中島義道氏
■中島氏のカント解釈
- カントは厳格主義、道徳的善というものを厳格に求めた、というのは正しい。しかしそのように考えると、善いことを推奨した人のように思われてしまうが、まったく違う。
- 一般に我々は善いことをすることが道徳と考えがち。行為の内容が問われる。
- カントは殺人・強姦・放火などのいわゆる犯罪については常識に任せておけばよいと考えていた。カントは漠然と自然法的な掟・法に従っているような行為のことを「適法的(合法的)行為」と呼んだ。カントにとっては「適法性」と「非適法性」を区別する基準についてはあまり問題ではない。
- カントにとっての一番の問題は、世の中で善いとされている行為の中身はあまり問題ではなく、動機が問題。
- カント曰く「道徳法則に従っている、道徳法則を尊敬するという動機」を問題としている。「自己愛がまったくない動機」。
- 自己愛がまったくなく、法的に許される行為をするときを道徳的に善しとしている。
- 自己愛とは、非常に広く定義されていて、生物体として自分の生命・身体・自由・名誉を守るということ。それに基づいて(それが動機で)何かする場合は、どんなに外形的な行為がいわゆる善いとされているものであっても、道徳的には善くはない、としている。
- 自己愛に基づいていない行為とは何かと言えば、「道徳法則を尊敬する」こと。この「道徳法則」が問題。
- カントが道徳法則、道徳的善さといっているものはほとんど一つ。それは「真実性の原則」とか「誠実性の原則」。誠実であること。嘘をつかないこと。ずる賢く人を騙さないこと。誠実な動機で何かをするかが問題。それがない場合はまったく道徳的にはゼロであるという議論。
■カントの人間理解と義務
- カントにとって、人間とは運命的存在であって、動物であれば楽だけれどそうではなく、神様・天使のような完璧な存在でもない、中間的な存在。道徳的であれという命令だけは下っているけれども達成できない。
- 人間は社会を作って法律を作り経済を盛んにし文化を築き上げていくということは避けられない。それとともに発生するのが根本悪。
- 根本悪が悪なのは「義務」に反しているから。義務とは以下の通り。
- 「完全義務」とは、従うのが普通でやらなければ罰せられたり非難されること。
- 「不完全義務」とは、しなくても社会的非難は受けないけれども行うと功績となること。
- 自分に対する完全義務:
誠実であること、自殺をしてはならない(カントは「人を殺してはいけない」とはどこにも言っていない) - 他人に対する完全義務:
約束を守ること - 自分に対する不完全義務:
道徳的でありかつありとあらゆるところで自分の才能を開花させること。今日よりも明日もっと完全たれ。油断していると動物になるという人間観。 - 他人に対する不完全義務:
他人に親切にすること。自分に対しては刻苦精励せよ、他人に対しては親切であれ。
- 自殺してはいけないのはなぜか。・・・(自分に対する完全義務)
- カントにとっては自殺する動機が問題で、自殺して善いか悪いかはどうでもいいこと。
- 自殺する動機として考えられることとして、これ以上生きていても苦しいから。
- 逆に自殺しない理由として、怖いから、親や周りが悲しむから。
- これらの動機はすべて自己愛だから(カントの道徳的には)ダメ。
- 自殺してはならないから自殺しないというのがカントの道徳的には正解
- 世の自殺のほとんどは道徳的ではなくなる。これがカントのリゴリズム(厳格主義)。追求しすぎて具体的世界では通用しなくなってしまう。
- 約束を守ることに関して・・・(他人に対する完全義務)
- 偽証:偽りで約束を守ることはすべてダメ。
- 約束をしたときにたいていの人は守るが、守らなければ仕返しを受けると思うのは自己愛。何らかの自分の利益のために約束を守るのはダメ。
- 普通我々は、商業道徳などでは自分の信用を維持するために、そのように約束を守る。しかしカント的には約束は守らなければならないと思っているから約束を守るというのでなければ道徳的価値はゼロ。
- 自分の幸福を求めることについて・・・(自分に対する不完全義務)
- カントは具体的な行為には興味はなく、関心があるのはやはり動機。そこにも自己愛があってはならないとする。
- ほとんどの人が刻苦精励するとき自分自身がよりよくなろうという自己愛。
- 他人の幸福を求めることについて・・・(他人に対する不完全義務)
- 名誉欲とか自己満足とか自分が優れているという自意識がこびりついている。
- ここには二重の自己愛がある。第一は自分自身の満足、第二に他者の承認を求める自己愛。
- 善いことをしようとすればするほど悪が侵食してくる構造。
■カントのいう真実性とは
- どんな場合でも嘘をついてはいけない。人の機嫌を取ったり心にもないことをいうこともカント的にはダメ。誠実であることは最も高い価値を持つ。それはカントにとってすべての行為についてまつわる各自の完全義務。
- カントは窮余の嘘・善意の嘘が最もいけないと言っている。「人の生命を救うから」嘘が許されるということが一番いけない。嘘をつくときの心情・動機が問題で、自分自身が嘘をついても、私が彼の生命を助けるからよいのだ、ということがカントは許せない。嘘をつくときに自己正当化さやすい構造があるので特に窮余の嘘・善意の嘘を徹底的にカントは嫌がる。
- カントの倫理学の魅力は守れないことを要求することであり、我々は守れないことを守ろうと方程式を解こうとする。それでどこまでいけるかという議論をする。
- 人間は不完全なので何をするかわからない。そのときに自分自身が弱いので自己弁護したくなる。「どうしようもなかった」「嘘をつかなければみんなが傷ついた」・・・etc。世間一般ではこれは賞賛されるが、カントは「嘘をつくな」の方が上位に来る。
- 我々はギリギリの場面になると自己正当化するために嘘をつく、そして嘘をつかなければ生きていけなかった、そうするしかなかったと言いたがるが、だからといって正しくはないというのがカント。
- そこをわけることが必要でありカント倫理学の厳格さとはそこにある。すべての人が守れなくても正しいことは正しいのだと。何をすべきかという文法は実際に私たちが何をしているかということとは独立だというのがカント。
■カントは悪をどう理解しているか
- カントは悪いことをすることに興味はなく、比較的簡単に片付ける。
- 世の中には極悪人がいて悪いことばかりしても、カントは我々はみな理性的存在者であり定言命法で絶対的に善いことをすべきだということを知っているはずだとする。
- 悪に関する二段階の問い
- 第一:みなが理性的存在でありながらなぜ悪いことをする人間がいるのか。
- 第二:なぜみんな外形的に適法的な行為をして動機は腐っているのか。なぜみんな犯罪を犯さない自殺もしない人に対して親切にするということをすべてやっているのに、動機は自己愛なのか。(根本悪の問題)
- 第一の問いは人格形成責任の問題。
- その人の生い立ちがどんなに惨めでも、どんなに悲惨でも、どんなに頭が悪くても、どんなに過酷な運命であっても、すべて自身の性格は自分で作ったののであり、だからといって人を殺したり罪を犯したりすることが許されることはない。
- 歯止めをかけるべきだったのにそうしなかった。だから罪を償わなくてはならないという議論。
- 第二の問題:人間はなぜとりたてて悪いことはしないのだけれども、すべて自己愛から動くのだろうか。なぜ自己愛なのに違うものとしてごまかすのだろう。なぜ嘘をついておいて嘘をつかないと言うのだろう。
- カントの人間観として、人間というのはもともと不完全な存在であって、完全に善いことをする人間がいるわけはない。
- 論理的に「私は自己愛がありません」ということほど自己愛的な自己欺瞞はない。自己愛を認めなくてはならない。
- 人間にせいぜいできることは道徳と「闘争」している状態。常に欲望をチェックしている状態。人間は道徳法則に絶えず違反しようとする性質がある。しかし命令は下ってくる。
■カントの根本悪とは
- 根本悪。すべての悪の根となるもの。
- 我々は誠実さを求めながら誠実ではない動機で行動してしまう。
- 自分の中の獣的な部分、ここには大した悪はあまりない。直接的欲望からくる悪は濃度の高い悪ではない。
- また悪そのものを目指すのは不可能。悪の法則にしたがって生きるのは悪魔、人間としては生きられない。
- すべての悪人は道徳法則を尊敬しながら気がつくと悪いことをしてしまう人。
- 社会作ることによって適法性という法律を定め、「適法性」「非適法性」を定めて従い合う。これに従うときに「転倒」が起こる。
- 本当は転倒しない順番は、第一に道徳法則に従うことであり誠実であること、第二に(自他が)幸福であること。これに転倒が起こる。本当は道徳法則は第一で幸福は道徳法則に従う限りで認められるというのが正しいというのがカントの考え。
- カントは幸福になれとは命令しない。人間は自然に幸福を求める。しかしカントは幸福に値するようになれと命令する。それは道徳法則を第一にしろということ。
- 常にいつもどういう場合でもという普遍性がない限り、どんな歯止めをかけても転倒は起こりうるのでダメだ、というのがカントの要求していること。これをごまかさないで問い続ける生き方がカントが望んでいる人間像。その生き方の過酷さが実践理性の実在性を示す。
- 我々は根本悪という絶大な引力圏に入っていて、善いことをしようとすればするほど悪に染まっていく。しかしやめることも許されず逃れられない。自殺もダメ。そのような中で悶えていくことが道徳的。カントは善いも悪いもないという直前の状態で踏み止まっている。
- 中島氏をして「この歳になってようやく誠実であることの意味がわかってきた」と述懐されていた。