研究集会<死の法>―尊厳死法案の検証― 参加

安楽死尊厳死法制化を阻止する会主催による品川・国民生活センターで開催された研究集会でお話を聞いて来ました。安楽死尊厳死問題について様々な方から多様な論点が提起され大変勉強になりました。以下は僕が会場でとったメモをもとににしておりますが、会場では多くの方々からこれ以上の様々なことが語られておりました。

※要注:以下のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。

光石忠敬氏(弁護士)講演:「尊厳死に関する法律要綱案」「尊厳死の法制化に関する要綱骨子案」について

05年11月に尊厳死法制化を考える議員連盟総会に日本医師会と日本弁護士連合会にヒアリング要請があったそうです。日本医師会の代表の意見は、解決されなければならない問題がたくさんあるため議論を尽くして国民的コンセンサスを得る必要があるものの、自己決定権の観点から尊厳死容認は国民の合意が得られつつあるという立場の意見だったそうです。これについては議員連盟側は比較的評価していたそうです。光石氏は日本弁護士連合会の代表として参加。光石氏の意見書は法制化の問題点を提起する形となっていたため議員からは不評だったそうです。
以下は光石忠敬氏の話された内容のまとめです。

  • 「Living Will(リビング・ウィル*1」に賛成か反対かということと、法制化をするかしないかは別問題。法制化に関わる倫理的・法的・社会的・経済的問題を問い直すべき。
  • 法律を作ることで人権侵害を侵す恐れ、錯誤に基づく自己決定を人々に促す可能性を懸念。
  • 要綱案・骨子案ともに「不治」かつ「末期」の「延命治療を望まない」が要件だが、「激痛に苦しむ」という要件が抜けている。また「末期」に遷延性意識障害*2の患者も含んでいる。
    • そもそもが「激痛がある」末期状態が想定されていた議論。医療技術の発達で激痛はある程度緩和可能。「激痛に苦しむ」という要件がないことは大きな変化。
  • 自己決定の問題
    • Living Willを書く段階では自分がどういう病状になるかは未来的・仮定的・想像的。主治医―患者間の同時性に欠ける。健康なときと病気になったときの考え方は違う可能性がある。
    • 要綱案では、一旦サインしたLiving Willを撤回するには「本人がその文書を破棄するか又はその文書にこれを撤回する旨及び日付、氏名を自署し捺印しなければならない」とされ、現場での患者の意思は正常な意思とはみなされない。その場合の正常な意思かどうかは主治医が決めることになる。
  • 社会的・経済的要因の問題
    • 医療費抑制が問題とされ高齢者の医療費削減が検討の俎上に上がっている。本当に高齢者医療が他の医療よりも高額かどうか調査・検討する必要がある。
    • 尊厳死を認める根拠として国民全体の医療経済上の効率性の観点から人の生死を定めることはあってはならないとしている。
    • 近親者の物心両面に渡る多大な負担の軽減を尊厳死を認める根拠としては認めないとされているが建前に過ぎない恐れがある。周囲に迷惑をかけるということがつらいと思う人が多いことに留意する必要がある。
    • 生命維持治療・延命治療を行わないことの責任を考慮に入れる必要がある。案では医師の行為の免責が定められている。
  • 生命維持治療の放棄を法制化することは、患者本人のためではなく、経済的要因や近親者の負担要因、医師の免責要因などが理由でないと言い切れるか。
  • 法制化がなされると、医学的に回復する見込みがないとされる患者への心理的圧力が増大する可能性がある。

「与死」という概念

光石氏は小松美彦氏が論文で提唱者を紹介していた「与死(よし)」という概念を説明されていました。

  • 松村外志張氏(株式会社ローマン工業、研究者)が「与死」という概念を日本に導入すべきと主張。臓器移植ネットワークは賛成。
  • 社会の規定によって与えられる死を本人が受容する形でなされるのが「与死」。本人が死を受け入れているという点では「殺人」とは違う。死を選択するという本人の意思を尊重するような尊厳死とも違う。
  • 「死ぬ」と「殺す」の間に「与死」という概念が導入されれば「死ぬ」と「殺す」の概念が曖昧になっていく恐れがあるとのこと。

会場に聴衆として参加していた小松美彦氏がさらに背景を解説されていました。

  • 松村外志張氏が日本移植学会の論文で紹介。日本人は臓器移植や再生医療などの研究・産業利用のために人体・身体を出すのを躊躇する傾向が強くそれをどう解消するかという内容。その解決案のひとつが「与死」という概念の導入。
  • 脳死者などその時に社会や国家が決めた人に対して死を与えることを許し、臓器や身体の一部をとりだして研究・産業に利用し、それを非倫理的なことだとは規定しないという内容。事実上は社会や国家から尊厳ある死の強制。しかも死なせるだけでなくその人々の身体を利用することと結びついている。
  • アメリカでは事実上の尊厳死移植が相当数行われている。脳死状態に至る手前で臓器提供の意思を示せば摘出が可能。そのようなマニュアルを持っている病院が半分以上。日本でも尊厳死と臓器移植は結びついている可能性がある。

立岩真也氏講演:「確かにおかしなこと幾つか+」

立岩真也氏は社会が安楽死尊厳死を容認することはどのような背景があるのかといったことが語られました。

尊厳死法案と社会
  • 尊厳死法案実現の可能性はともあれガイドラインとして各病院に配られている趨勢。法案という形が撤回されればよいという問題ではない。
  • 今回の法案を提出する母体は日本尊厳死協会。これまでの法制化の動きに関する歴史があまり知られていない。1976年に安楽死協会ができて82〜83年に法案化の動きがあり当時は失敗。今も当時とほぼ同じ議論をしている。
  • 日本尊厳死協会の故・太田典礼氏の発言がどこまで一般に知られているか。発想や意図を知ってそれでも賛成できるか。20年を経て日本尊厳死協会は10万人以上の賛同者を得ている。
  • 事態の進行の順序が違うのでは。生きたい人が生きられる状態になってから尊厳死を考え始めても遅くはない。尊厳死の問題を進めいている人々は医療費・社会福祉の問題とは無関連であると主張。そうだとすればまず不足している点を解決してから議論すべき。
  • そうでないとするなら「関係がある」ということ。社会ではそれを大っぴらに言葉にし難いことかもしれないが。
■問い直しの契機について
  • 我々が安楽死尊厳死で古典的にイメージするのは「不治」の「末期」の「苦痛のある」状態。それは死を要求する理由として現実的なのか?
    • 「不治」でも別に生きてていい。特に条件にならない。
    • 「末期」で余命幾ばくもないことが本当にわかるのか。わかったとして別に生きていてもいいのではないか。残り短い時間でできるだけのことをすればよい。
    • 「苦痛」はつらいが、かなり緩和できるようになってきた。
  • むしろ逆の理由、このままだと長く生きてしまうという理由があるのではないか?
  • 「不治」の「末期」の「苦痛のある」状態をクリアしてなお生を否定しようとする意識・営みとは何なのか。
  • 自らの死に方を決めることが許容されているとして、自死を禁ずることができるのか。普通は他者が止めようとしたり異議を申し立てたりする。本人が決めることにはある程度同意しつつ、場合によっては他者の介入を拒否することもできないだろう。
  • 未来の状態のわからない自分のことを決めることを自己決定として認めるとしても、どこまで正当化されるのか。
  • 自己決定の理由は、自分が最も自分にとってよいことを知っているということ。そのことと遷延性意識障害認知症になったときのことを決めることが合致しうるか?何年も前にその状態を推し量っての決定にならざるをえない。
  • その人はなぜ未来のことをそのように決めるのか。その状態になったときに誰かに負担をかけることを考慮するのが理由だとすると、その自己決定がなされることが果たしてよいことなのか。自己決定に際して中立的に情報を提供だけしていればよい、とは言えないのでは。
  • 自己決定に関してどの程度社会の関わりがないと言えるか。その人が意思を貫く理由は社会が何を価値としているかに関わっている。それを再検討して悩む人に伝える義務があるのでは。そのことで当人の意思・行為を禁ずることはできないかもしれないが、「思いとどまってもらいたい」と言うことはできる。
  • 今の自分をやめてしまいたいという意思を、他者がすぐに認めてしまうことはよいことなのか。そう思わせる状況を我々は維持・拡大していないか問い直すことが必要。

※要注:以上のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。

会場にて

会場について席に座って横を向いたらいきなりid:sugitasyunsukeさんと目が合いご挨拶。
id:x0000000000さんが来場されていることをもろもろの情報から推測していたので、休憩時間に探してみたところお会いすることが出来ました。なんとお隣の席にはid:mojimojiさんも。いろいろな方にご挨拶することができました。