日本カント協会 創立30周年記念学会 記念公開講演参加

12月3日・4日とお茶の水女子大で開催されていた日本カント協会創立30周年記念学会の記念公開講演の部(12/4午前のみ)に行って参りました。僕が見た案内では10:30〜12:30で柄谷行人氏の講演があるとなっていたのですが、実際は10:00〜12:30で韓端錫氏(韓国全北大学校名誉教授)、中島義道氏(電気通信大学教授)、柄谷行人氏(近畿大学教授)の3本立て講演で、図らずもいろいろなことを拝聴できました。テーマは以下の通り。

初・お茶の水大

初めてお茶の水女子大に参りました。入ったことがない場所なので、女子しかいなかったらどうしよう!わーとか思って行ったのですが(ウソ)、講演会場はほぼ男性で年齢層も若いとは言えず、まあ予想できたことでは在りある意味(?)安心しました。正門のイチョウ並木が黄色に染まっていてとても綺麗でした。大学はこうでなくちゃとか勝手に思ったりしました。


※要注:以下のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。

韓国におけるカント研究の現状(1905〜2005) 韓端錫氏

残念ながら最初の講演は到着が10:15ごろだったため、途中から聞くこととなったので、すべての筋がよくわからないまま終わってしまったのですが、聞こえてくる単語にはいろいろと興味深いものが。

  • 朝鮮戦争の休戦と共に韓国各地に大学が設立され、大学の教養科目に哲学が必修とされたため、各地に哲学科が設置され、韓国では哲学研究者の中でカント研究者が一番多いとのこと。
  • 日本でも西洋哲学を受け入れる素地となったは朱子学だったと言われているが、韓国でも同様だったらしく、儒学者がカント哲学と朱子学の比較分析をしたりしたらしい。
  • 東アジアの文化の同一性が言われるときに「儒教文化圏」で括られることが多いが、各国の近代化の過程で西洋哲学の翻訳漢語が日本・韓国・中国・台湾等である程度の同一性がみられ、西洋哲学・学問の受容過程の同一性もあるとのこと。

カントにおける「悪」の問題 中島義道

悪について中島氏のカントの「根本悪」については以前講演を伺ったことがあったので非常に理解しやすかった。

  • 哲学者・倫理学者は哲学・倫理を研究しているのに定言命法で生きず、仮言命法で生きているのが不思議でならないと研究者の態度を(ある意味)挑発。
  • カントの「悪」の問題は、「悪い行為(=非適法的行為)」にあるのではないとのこと。それは最初から対象外(道徳法則に悖る)。
  • 問題は、我々は「善き行為(=適法的行為)」を行ってはいるが、その理由は(カントの言う)道徳法則に従うからではなく「自己愛」に基づいて外形的に善き行為を行うこと。
  • カントの道徳法則(定言命法)は「真実性(嘘をつかないこと)」が幸福になることの上位におかれている。幸福を実現する限りで真実性を追究することは道徳秩序を転倒させることになる。これがカントのいう「根本悪」。
  • これを前提にすると社会生活が破綻して営めない。ではカントはなぜそのようなことを言ったのか。
  • カントの道徳法則に従うのは無理と諦めて生きていくのはシニシズム
  • また自分は動機の転倒を巧みに回避して正直に道徳法則に適合して生きていけると思っているのが最も転倒している。
  • ポイントは「命じられているけれど正解がないこと」。多くの哲学研究者はカントの定言命法を解釈で修正しようとするが、そうすべきではなくそのまま解釈して、自分の行った行為が適法的行為であったとしても動機の転倒せざるを得ないことを受け入れて「納得しない」という契機が重要。
  • 自分の行動に対して「仕方がない」「仕方がなかった」と言わない!

最後の質疑応答で法政大学の牧野英二教授が中島氏に「(中島氏は)著作で『人間は(動機が)腐っている』と書いているが本当にそう思っているのか?」と質問したところ、中島氏は「時間がないので簡潔に」と但し書きをつけた上で、「腐ってると思います。私もあなたも。特にそういう外形的に立派な質問をなさる方が一番腐っていると思います。」と、雰囲気は険悪ではなくギャクの応酬といった感じでしたが、本気半分ギャグ半分(もしかしたらマジ?)な回答をしておられました。
それにしても、「『仕方がない』『仕方がなかった』と言わない」という中島氏の主張は、非常に重い。カント、重すぎ。

カントとフロイト 柄谷行人

ネーションと美学で、最後に柄谷行人氏の講演。僕は数冊著作を読んだことがあるだけで、柄谷氏の思想の全容を理解できていないので、よく目にする「トランスクリティーク」なる言葉の意味がいまいちよくつかめていませんでした。しかし今回の講演でその一部を目の当たりにすることができました。今回の講演は岩波書店の『定本 柄谷行人集』の第4巻に収めれれている「カントとフロイト」の内容の反復になると前もって断られておりましたが、僕は読んだことはなかったので非常に刺激的でした。

  • トランスクリティーク」とはカントからフロイトを読み、フロイトからカントを読むことで、それまで見えなかったことが見えてきたとのこと。
  • カントとフロイトは齢60を過ぎてから、彼等自身のそれまでの仕事を根本的に書き換えてしまうような重要な仕事をしたとのこと。カントとフロイトは晩年に平和の問題に取り組んだ。それは彼らの仕事とかけ離れたものではなくむしろ密接したものだった。フロイトは晩年、カント的理念に基づいて作られた国際連盟による世界平和の途を模索した。
  • カントの「至上命令定言命法)」は後世、デュルケムからは社会的な模範として、初期のフロイトからは「エディプス・コンプレックスの直系の後継者」として、つまり社会が主体に命令を与える根源として認識されていた。
  • フロイトの「超自我」という概念は1923年つまり第一次大戦後に提唱された。これは1900年に書かれた『夢判断』の「夢の検閲官」とは違う。「検閲官」は「エディプス・コンプレックスの結果として内面化された父または共同体的な規範」と同様のもの。
  • 超自我」は、第一次大戦後に発表された「快感原則の彼岸」の中の「死の欲動」概念を提示したのちに発表されている。帰還兵士が戦争の悪夢で飛び起きる現象に、本来なら不快で避けられるべき行為が反復される症候に注目。また母の不在を体験した子が遊戯で母との離別を再現する現象に注目。フロイト反復強迫が快感原則よりも本源的なものに由来すると考えた。それを「死の欲動」と考えた。
  • その欲動が外に向うと他者への攻撃欲動となるが、内に向うことで「超自我」が形成されると考えた。「検閲官」は父や社会など外から来る他律的なものに対して、「超自我」は内から生じる自律的なものと考えた。フロイトは強い欲動は内から来ると考えた。
  • フロイトは初期にはユーモアに重きを置いていなかったが、第一次大戦後はユーモアに重きを置くようになった。そして本来なら避けれれるべき行為が反復され再現されることで克服されることを見出した。そこに哀れな無力な「自我」を慰める「超自我」の自律的・自己律法的な働きを見た。ここでは「不快」がある種の「快」に転換してしまう現象が起こる。これをフロイトは「快感原則の彼岸」とした。
  • 「不快」がある種の「快」に変わってしまうことを最初に考察したのはカント。カントは「美」と「崇高」を区別する。「美」とはフロイトの言葉で言えば「快感原則」で説明できるもの。「美」とは「自然対象に目的なき合目的性を見出すこと」。美の根拠は外的対象にある。それに対して「崇高」さは「合目的性の形式を見出しえないところに、なお別の種類の合目的性を見出そうとするときに生じる」とする。「崇高」の根拠は我々の内にありそれが外的対象に投射される。カントは「崇高」の観念には理性が関与しているとし「それは主体自身の無能力がかえって主体の無制限な能力の意識を開くものである」としている。これはフロイトの無力な自我を無制限な能力を持った超自我が慰めるという構造と類似。そして「不快」であることを反復することで「快」へと変えていく。
  • カントの義務、道徳法則、至上命題は、外から来るのではなく内から来るものとしていた。だから道徳律法は自律的なものであり他律的なものではない。むしろ他律的な社会統御を批判しているとも考えられる。そして晩年のカントにおいてこれらは道徳的な問題ではなく、政治的・経済的問題であった。そして永遠平和論に取り組む。それは単なる平和論ではなく、各国が自律的に主権を委譲することで(「不快」を為すことで/無能力となることで)世界共和国に向い世界平和が実現される(「快」となす/無限の能力を発揮する)という現実的な歴史の問題であると考えていた。

理論的枠組みは上記の通り。それらを元にしてその後、

  • 「意識/無意識」「理性/感情」の二元論から離脱したフロイト精神分析の起源を無意識へのロマン主義に見出したユングの離別について、
  • 精神分析ロマン主義の類似点について、
  • フロイトによるワイマール体制の擁護とその理論(押し付けられたものではなく、攻撃欲動を抑制することができるのは攻撃欲動それ自体であるとした)について、
  • 「戦争国による支配がドイツを弱体化し、民族・文化のアイデンティティを致命的に損なった」という言説そのものこそが第一次大戦後のワイマール体制において最も声高に激しく主張されたものでありそれがナチズムに帰結したという反省から歴史の見直しは非憲法的として禁止されている(内的自律を課す)ドイツと勝者によって描かれた歴史を見直すという主張が絶えず噴出している(外的他律に苛立つ)がしかし改憲はなかなか行われなかった/行われないかもしれない(実は「超自我」が働いている!?)日本の比較、
  • 今後の国際関係についてのヘーゲル覇権国家論=「理性の狡知」とカントの永久平和論=「自然の狡知」

などが語られました。
今後の国際関係においては、国家が主権を振り回すことができると信じえたノーマルな時代はすでに終わっており、そのようなことをすれば再び大きな災禍に見舞われる可能性が論じれらた。つまり相互の主権の行使ではなく相互の主権の委譲こそが平和実現には必要であると。この議論を聞いていてやはり頭にもたげてくるのは憲法9条改憲の問題であり、

  • 東アジア共同体の構築を推し進めたのち現行憲法の理念を実現する(軽装化・非武装化する)という途も、
  • 現行の自衛隊を認め国家安全基本法のようなものを作り武力の発動には国連やそれに変わるマルチラテラルな国家共同体に決定を委ねるという途も、

ともに「主権を揚棄する*1」という意味で、今後日本が考えていくべき途ではないかと思った。その前提にたつならば、あとはどちらが現実性があるか、どちらが別な途に転んでしまう危険性が少ないか、という問題になるかもと思いました。

※要注:以上のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。


凡庸なことを承知で開陳すると、僕自身にも日常生活に支障はないけれど、ある「反復強迫」らしきものが実はあります。そしてそれがフロイトに説明されており「超自我」と名づけられていたことを知りました。それまでは「超自我」とは抽象的な神・社会模範・父親(役割)*2のようなものだと理解していたと思います。そしてそれが僕を動かしている駆動力であったことを図らずも知ることとなりました。不快なはずのことが快に転換されていたことを知りました。いや認識できていなかっただけで僕という人格のシステムは既にそれを知っていのです。大いに心当たりあり。僕個人にとってこの超自我が消える(克服する)ことが幸せなのか、このまま残り続ける(克服できない)ことが幸せなのか。まあこれは個人的なことなので自分で考えるということで。

*1:「放棄」ではない

*2:大澤真幸氏の言うところの「第三の審級」(?)

茶寮・都路里 カレッタ汐留店に行く

大分の実家から電話があって、茶寮・都路里の茶菓子が食べたいので買って送ってくれとのこと。よくわからないままカレッタ汐留に行き、茶寮・都路里カレッタ店でそのお菓子を買って送る。おまけでもらったお菓子を食べたら抹茶の味が効いておりました。

KawakitaのBookmark (2005/11/28-12/04)