モバイル社会研究所・未来心理研究会 公開討議「モバイル社会における技術と人間」 参加
NTTインターコミュニケーション・センター(ICC)で開催されたモバイル社会研究所・未来心理研究会の公開討議「モバイル社会における技術と人間」に行ってきました。今回の公開討議はモバイル社会研究所・未来心理研究会と宮台真司氏主催の思想塾との共同企画。
登壇者は前半の鼎談では、宮台真司氏(社会学者)、斉藤環氏(精神科医)、船木亨氏(西洋現代哲学)、後半の討議では和田伸一郎氏(メディア論・哲学)、茅野稔人氏(政治哲学)、鈴木弘輝氏(教育社会学)、堀内進之介氏(政治社会学)でした。司会はモバイル社会研究所の萩原徹太郎氏。
携帯端末の「極小化(機体が小さくなっていく)」「統合化(様々な機能を搭載)」「ネットワーク化(サービスを実現するために緊密にネットワークと関係・連携)」が進展し、システムの側が人間の振舞の中から様々な契機を見つけてくれ最適なサービスを提供してもらえるような「ユビキタス・サービス」が社会に普及し始めている状況において、従来は比較的明確だったように思われる人間とシステムの境界線が曖昧化し始めているのではないか、一度獲得した利便性を手放すことはできないという前提があるとすれば機械・システムと人間の関係はどのようなものになっていくのか、という問題設定の下、合計5時間近くの討論が展開されました。
以下は前半の宮台真司氏×斉藤環氏×船木亨氏による鼎談を中心にしたまとめメモです。
※要注:以下のものは私が見聞きして印象に残ったことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。
船木亨氏は現在のデジタル・メディアを考察するときに、これまで哲学が前提としてきた近代的なの概念を単純に当てはめてみても現在の状況を的確に捉えることができないのではないかという認識の下、議論を展開されていました。
- 我々の「知覚」と呼んでいる直接経験していると思っているものの中にデジタル処理されたものがシームレスに入り込んでいる。現実を経験していると思っているものの中に人工的に機械が作り出した表象が入ってきている。
- 我々の「行動」も何らかの情報として送り出され蓄積され何らかの形でアウトプットされるようになっている。その結果がまた我々の行動に反映するというプロセスが存在する状況になっている。
- 知覚と行動が情報ネットワークを介して多様なサイクルを形成すると、人間の知覚と行動の出発点と到着点が曖昧になる。通常は主体が知覚しその情報に基づいて判断して行動すると考えられてきたが、システムや機械が主体の知覚に影響を与え行動を促すようになる逆転が起こる。これまでの近代的な人間主体の概念では混乱が生じてしまうのでは。
- 「もはや私は『人間』ではない」
- 「人間(Humanbeing)」という概念はヨーロッパのルネサンス期に完成。想定されているのはローマ時代の貴族のような特別な優れた存在(普遍人・万能人)。
- M.フーコーはニーチェに倣って「『人間』は死んだ」と宣言した。近代的「人間」という概念は歴史的なもの。これが普遍的な概念であると考えられてきた。
- 機械の語源のひとつはギリシャ時代の奴隷。時計や蒸気機関などの自動機械が開発・使用されてくる中で、人間が「機械の奴隷」になってしまっているという意識が生まれてきた。
- しかし人間と機械の個体は対応する概念なのか。人間は道具や機械をこれまで使いこなしながら生活の中に組み込んできたという意味で、すでに人間は機械の一部でありサイボーグ。個別の機械は人間の機能の拡張という意味で人間の器官の一部。
- それが巨大なネットワークに接続されてシステムを形成しつつあり、人間のネットワークと機械のネットワークの融合が起こっている。経験は身体という「生理学的機械」に局在化されなければならない理由はない。「私」はネットの至る所に存在する。
- 近代において人間概念からの逸脱は「動物」「機械」「病気」「異常」と人間以外のものとして扱われてきたが、「人間らしさ」とはその時代・社会が期待している道徳観に過ぎない。
- 実際ある分野では人間の行動は接点化・瞬間化されており、行為・行動の背後に「人間」「人格」なるものを想定しようとはしない。そこに信頼を置くことをやめて、瞬間瞬間の行為で信用・信頼を考えていく様になってきている。
- 知覚がデジタル表象と区別ができなくなり、行動が情報発信と区別できなくなり、行動を喚起する欲望がネット上で情報を媒介として生産されるようになる。ユビキタスは主体がどこにあるかわからないと同時に主体が偏在する。
- 「人間」という概念が重要なのではなく、むしろ「人間」という概念で守ろうとしているものは何なのか。生物学的機械的人間観が一般化しそれを操作する技術が発展しつつも、近代の人間の価値が追求されるために様々な齟齬が発生している。
- 機械から引き離せば「人間的」になるわけではない。「人間的」という言葉で守ろうとしているものは決して機械と対立するものではない。しかるべき線引きは「機械」と「人間」の間ではなく、「サイボーグ」と「ロボット」の間にあると考えられる。
- サイボーグとは、機械を作り出し機械の中に自らを取り込んでいくような種としての人間の生き方。
- ロボットとは、「機械化された人間」。機械で人間と同じものを作ることができる(=ロボット)と近代初期の人々は信じていた。そこでは人間が暴力的にある理念・道徳に一元化される(徹底するとファシズム的なものになる)。そのような暴力的なものは近代の理念的人間像を追及するからこそ、その効果・病理として生じているのではないか。
- 今日、技術は発展・利便性とともにより巨大な「悪」を作り出してきたと反省とともに認識されている。情報技術の進展にも同様な懸念がされている。しかし人々が真に恐れているのは実はこれまでの道徳観が変化してしまうことなのではないのか。
- 近代的な人間像をそれを普遍・基準とし、人間は機械になってはいけないと批判する人たちに反対。恐れるべきは巨大な暴力であって道徳観の変化ではない。むしろ従来の近代的人間概念で人間を単一の道徳・理念に一元化しようとすることにこそ巨大な暴力が出現する危険を見る。
- 人類の長い歴史で見られてきたように、人間が道具・機械に取り込まれその一部になりながらそれらを使いこなしていく状況を作り出すことが重要。環境の変化に応じて道徳観を変化・多様化させ巨大な暴力を避ける道を開くことを情報技術は支援・推進することができるはず。
斉藤環氏は昨今の臨床の場での傾向、これまでの人間の主体概念について精神分析の観点から考えられてきたこと、およびスマート化・ユビキタス化が実現された社会においての「無意識」の意味づけの変化を語られており、様々な論点を提示されていたように思います。
- 精神科の臨床の現場において「人間」の後景化・衰弱の現象はある位相で起こりつつある。
- メディア論の衰退:汎デジタル化&スマート化によってメディアが遍在化してしまったため個々のメディアの特性が曖昧化し、リアリティの位相が変化した。
- すべての現実は虚構である:
デジタルメディアによって極めて現実体験にに近いバーチャル体験が可能になり、我々の日常経験を特権化しているものがあるのかと問われ始めている。 - すべての虚構は現実である:
脳科学ブーム。すべての経験は脳の中で起こっている化学的な変化。あらゆる体験は脳の中で実現することができる。
- すべての現実は虚構である:
- ユビキタス社会において人間は成熟しようがない。
- 「関係性」が前景化し問題化される。
- 「関係性」と「コミュニケーション」は違う。両者の差異がユビキタス化によって段々と際立っていく。
- 「関係性」は固有性に依存する。「コミュニケーション」は匿名性に依存する。メディアの発達によって「コミュニケーション」の過剰と欠如の両極化が進み問題となっている。
- 「関係性」と「コミュニケーション」は記述が可能か不可能かで区別できる。「コミュニケーション」の主体はスペックを記述できる。「関係性」は記述を超えた部分で発生し、「コミュニケーション」に回収・還元できない関係の深まりがある。「コミュニケーション」関係においてはそのような「関係性」の構築は極めて困難。ユビキタス社会では「関係性」が起こりにくい。
- ユビキタス社会は無意識を二重化する。
- 精神分析から導かれる倫理的主張として「人間は変われば変わるほど変わらない」。人間は表層的な部分は変わるが実は反復や同一性への回帰する傾向があり、それがメディアの介在によっていっそうはっきりしてくるだろう。
- メディアが明確にする人間の3つの因果律
- スマート化テクノロジーによって遍在化したメディアが人間につきまとい介入・干渉することで、器質的因果律と精神的因果律という矛盾するロジックが我々の主体の中で動いていることが明らかになるだろう。
- だが擬似的な象徴界がスマート化テクノロジーで実現される可能性がある。その便利さに安住してしまう危険性に対して努力して自覚的であらねばならない。
- 情報幻想:すべての人間の行為・発言・思考・記憶は情報化可能という幻想(機械的因果律のみですべてが覆えるという発想)。この幻想が広く共有されているのが現代社会。
- この幻想に対抗できるものがあるとすればラカン的な倫理がある。
- ラカンは「罪があると言い得る唯一のこととは、(中略)、自らの欲望に関して譲歩したことである」と言っている。
- 我々の欲望は最大公約数的な快感に代替されてしまっているところがある。我々はあるレベルの快適さを得ているが、本当にそれで満足していいのかという問い。そこで初めて平均化された快楽の中で自分の個別性が問われることになる。
- スマート化がもたらすものは「快楽(plasir)」。緊張を解放する快感のレベルまではシステムが提供してくれる。ラカンはその先に「享楽(juissance)」を見出す。それは苦痛も孕むが強烈な体験。そこにこそ個別性・固有性がある。
- 「享楽」は決してシステムは提供できないことを認識しておけば、自分の欲望が本当に満たされているのかという懐疑は維持できる。
宮台真司氏は、技術進展による社会における境界線の危機、便益と脱主体化のポリティクス、フレーム問題など、政治的・社会的な観点から議論されていました。
- 技術がもたらす境界線の危機、二つの境界線の困難
- 人間的であることの困難:
人間的であることと人間的でないことの境界線の危機。人間的であるべき存在が人間である必然性は実はない、人間であれば人間的であるとは限らない。- ライフ・ポリティクス:人間にとってよきことと思われていたことが、よきこととして操縦されたものだという問題意識からの人間的であることの困難。
- 人間であることの困難:
人間であることと人間でないことの境界線の危機 - 人間的であることについては作為が問題となっており、人間であることについては不作為が問題となっている。
- 人間的であることの困難:
- Web2.0やユビキタスとはモノとモノの交流について注目してる議論。人々の(選択の)意志や意欲とは無関係に勝手にコミュニケーションが発生することで、人々が望むであろうことがスイッチレスにスマートに実現するようになること。
- 情報素材の民主化とスマート化テクノロジーの二つの利便性と脱主体化
- Google Earthが象徴的なように、各人がシステムに民主的に情報を書き込み、各人の端末が自動的に民主的に他者によって書き込まれた、各人の欲望に応じた情報を取得する。利便化とともにある種の問題が発生。
- 既知性による脱主体化:
事前情報を得ることでハズレの確率が低下する。しかし、自分の目と耳で新奇な予想外なことに遭遇して処理していくという体験から別のものに置き換えられていく。すでに与えられた情報をなぞるだけ。 - 脱選択による脱主体化:
スイッチレス化・スマート化・シームレス化することで人々が何かを選択しようという意識なしに最適なサービスがもたらされる状況。近代における人間観では、人間は選択する存在ということが前提。スマート化するとデータベースによる情報蓄積を利用した推測によって選択が免除される。脱選択化した人間は人間的なのか。
- 既知性による脱主体化:
- Google Earthが象徴的なように、各人がシステムに民主的に情報を書き込み、各人の端末が自動的に民主的に他者によって書き込まれた、各人の欲望に応じた情報を取得する。利便化とともにある種の問題が発生。
- 脱主体化は政治的に追求されてもいる「Good Feel States」
- 各人に快楽・よきものを与える国家を志向、暴力は究極的には排除される。
- よい/悪いネオコン、ともにデモクラシーを究極的な価値としない。暴力による「社会統合」も、スマート化による「社会化」も、近代的な価値を体現するためにこそ、合意形成をスキップしようとする傾向がある。
- システムの正統性は我々の生活世界に便益をもたらし幸せにするからということで調達されていたが、汎システム化すると誰にとってシステム化がよいものになるのか正統性が想像できない。
- 技術の押し込みのプロセスでは社会的正統性よりもスマート化による便益が強調される。
- 感情についても、まともな感情を持つ必要性がキャンセルされてきている。快/不快要素によるアーキテクチャや監視テクノロジを徹底利用することで、誰一人まともな感情を持っていなくても安定した秩序を保つ社会を想定することは論理的には不可能ではない。
- 長い人類の歴史の中で記憶保持の必要性がキャンセルされ、昨今はまともな感情を持つことがキャンセルされていく状況の中で、人間的であると考えられるあり方からのズレを示す傾向をどう評価するかということは難しい。
- 近代社会は普遍的であると僭称してある種の人間像を提示してきたが、万人に適用できるはずもなく、それで何が悪いのかという問いが立つが、それは忘却と快楽の淵で戯れつつ生きていくことが推奨されようとしているのかだろうか。
- 自分たちが良き生についてどういう考えを持っているか、良き生とは何によってもたらされ何によって維持されているのかというライフポリティクスの問題になってくる。
- フレーム問題:何を為すか/為さないかというときに、何を考えなくて済むことを事前には列挙できないという問題。
- アーキテクチャの設計の問題:
- アーキテクチャの設計者が考えなければならないことを利用者は普通は考えない。これが社会のメカニズム全体に発生する。
- アーキテクチャを意識しないということは、どういう権益やリスクの配置が行われているか、濫用や収奪が行われている可能性が不可視となるのでチェックできないし、チェックする動機も生まれない。社会の全体性という観点からは大きな問題を孕む。
- 全体性の概念は、スマート化・複雑化した社会の中で、意識せずに絶えず人々に操縦されていることが起こっていることを問題化する。そこでは「人称性」が問題となる。
- 無意識や象徴界に操縦される場合は脱人称的であるが、社会で人々に設計されたアーキテクチャによって意図せずして操縦されることには人称性による選択と責任が存在しうる。
- 問題はアーキテクチャの設計を巡る意図の察知にある。アーキテクチャの設計は目的に対する手段であり、手段は幾つかの機能的等価物としての選択肢がある。どのような理由で手段を選択したのかということについて目的達成という観点とは別の評価軸がありうる。そのことを察知できるのはアーキテクチャに通暁している人間だけ。この相対的落差が社会的に拡がってきており、一部の人間以外には手段の社会的正統性が見過ごされる可能性が高くなる。
- 速度の問題:
- 蓋然的な想像・推定が及ぶ範囲と及ばない範囲が人には存在する。保守主義はこれまでわかっていることはよいがわからないことはまずいことが起こるかもしれないという立場。
- 想像・推定が及ばない範囲でも、冒険的な人々による経験の積み重ねが行われることによって許容されていく可能性がある。
- 人間はほとんど何も考えていないが、(個人的/社会的な)経験的な許容原理が存在する。何かを考えなければならないと思うことで考える範囲を拡げていく。
- ここでは速度が非常に重要になる。技術の発展・環境の変化が我々の経験的学習速度に矛盾しない程度であれば許容可能となる。
- 最も考えなくてよい基本的な地平と思われていたものをバイオテクノロジーが壊してしまう可能性がある。しかし学習され経験が蓄積されれば受け入れ可能かもしれない。技術進歩を我々の学習速度からみて合理的な範囲にとどめることが、技術の社会的受容のインターフェースで重要になる。
※要注:以上のものは私が見聞きして印象に残ったことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。
- 【参考】ICCシンポジウム「ネットワーク社会の文化と創造」
第一回「ネットワーク社会の文化と創造―開かれたコミュニケーションのために」
パネリスト:宮台真司,斎藤環、藤幡正樹、浅田彰(司会)
http://hive.ntticc.or.jp/contents/symposia/20060610/
追記:2006-10-20
- END_OF_SCAN
- 2006-10-17 未来心理研究会 公開討議「モバイル社会における技術と人間」
http://d.hatena.ne.jp/paraselene/20061017/1161092122
- 2006-10-17 未来心理研究会 公開討議「モバイル社会における技術と人間」
追記:2006-10-24
畏れ多くも公開討議「モバイル社会における技術と人間」の登壇者の宮台先生と堀内進之介さんのblogにて当blogのレポをご紹介いただきました。たくさんの方に訪れていただいておりますので重ねて申し上げますが、当レポはあくまで私のメモ・記憶・その他で参考として作成したものであり、必ずしも発言者の真意に添えていない場合がありますのでその点はご留意ください。
- MIYADAI.com
- 先日のDocomo主催「モバイル社会における技術と人間」[思想塾との共同企画]に関連する文章をアップします
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=418
- 先日のDocomo主催「モバイル社会における技術と人間」[思想塾との共同企画]に関連する文章をアップします
- 《知》の即興空間
- 「モバイル社会における技術と人間」
http://trickystar.blog59.fc2.com/blog-entry-47.html
- 「モバイル社会における技術と人間」