『戦後60年』刊行記念 上野昂志+大塚英志トークセッション 参加

戦後60年青山ブックセンターで開催された『戦後60年』刊行記念の上野昂志氏×大塚英志氏のトークセッションに参加してまいりました。批評とか文壇とかマンガとか宮崎駿監督など様々なテーマについて語られましたが、僕が印象的だったことをまとめてみました。

※要注:以下のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。

  • 戦後60年』刊行の意味と歴史意識について
    • 事件・出来事などを一つの時間軸に照らし合わせて、その時代の中でどのような評価を受けどのような影響を与えたのかというように読んでいくような作業がなされてなく、単なる「情報」として読み解かれている。
    • 80年代にはまだ戦後からの時間軸が明確にみなに意識されていたので、逆に記号論やシステム論など非歴史的・脱歴史的な言葉を安心してカウンターとして使用できた。それが90年代以降カウンターにならなくなってきた。
    • 今年戦後60年ということで様々な特集がなされているが、いきなり「戦争」の事ばかりが語られている。45年からどのようないきさつがあって現在まで至っているのかということは問われないまま、過去の一点が現在と断絶した過去として語られている。参照したいものだけを時間の流れを無視して恣意的にデータベースとして参照している。
    • アジアの人々が日本に対して怒っているのは、アジアにはまだ時間軸・歴史の流れがちゃんとあり、過去にあったことと今彼等がそこにいることは連続している。しかし日本人は過去あったことと現在の間がすっぽり抜けている。歴史感覚がある人々となくなってしまった人々の間にディスコミュニケーションが発生している。
    • 歴史意識が消えた後、過去に対する薀蓄のようなものはよく語られている。南京大虐殺の写真の一部には恣意的な捏造があるなど。しかし南京大虐殺が発生する前後の流れの歴史などが考慮されることがない。現在を肯定するためだけに過去が任意に引用されている。
    • アジアから歴史問題を突きつけられたときに「まだ謝るのか」としか反応できない。現在の行動をとる上で歴史を検証・継承して行動してほしいと言われているのにその意識を持てていない。
  • 今回の選挙からみえてくること
    • 戦後60年「言葉」というものをネグレクトしてきた。憲法9条で軍隊を保持しないと宣言し、かつ国際社会で影響力のある地位を保持したいということを国是としてきたのであれば、「言葉」による交渉を重視せざるを得なかった。それをしてこなかったから金を出せと言われてしまう。一方で憲法9条で軍隊を保持しないと宣言しつつ自衛隊を持つように、建前と本音を区別して、言葉の内実を問うてこなかった。
    • 今回の選挙ではキャッチフレーズが連呼され、その内実は空虚なのに問われることはない。言葉が尊重されるためには、一度痛い目にあってから、なぜそうなったのか、それは言葉の内実を問わなかったからだ、と気付くまで状況が推移するしかない。
    • 逆説が成立しなくなった。「あえて〜をする」ということが成立しづらくなっている。すべてが順接で繋がっている。「あえて」というときには意味の軋轢が起こるが、順接では起きない。「Aは、〜〜だがあえて、Bする」ということが「あえて」が省略されて、のっぺらぼうに「Aは、Bする」となってしまっている。
    • 言葉の多義性が失われている。白か黒か、郵政民営化賛成か反対か、みたいなことしか理解できなくなっている。民営化は賛成だが現在の法案はこの部分が間違っているとか、郵政民営化を主題に挙げる事がそもそも間違っているというような議論がまったくできなくなっている。
    • 柳田国男は大正時代に普通選挙が実施されたとき自分で判断せずに有力者・地元名士に投票してしまう有権者の有様を見て「共同体から離れて個人になれ」と論陣を張った。今回の選挙ではこれまで自民党が基盤としてきた共同体(支援組織)から離れて、有権者は個人として判断して投票した選挙とも考えられるが、近代的な個として判断するための基準としての「言葉」がまったく用意・学習されていなかった。
    • 柳田国男私小説を評価した。それは個人が自分のことを客体化して言葉として表現できること(私小説)と、言葉で説得されて内容を自分で判断して有権者が投票することとパラレルになっていた。
    • 現代は、個として言葉を判断するための土台形成は達成できないまま、しかし地域的共同体や支援組織的なものは解体・崩壊しているのが実情。個になった結果、個に耐えられない、個を支える言葉がないので、その結果としてテレビで言っている「大きな流れ」やわかりやすい言葉に寄って行ってしまう。
    • 「空気を読め」という言葉を若い人が、山本七平を知らないままに、使用している。局面局面に自分を適合させていくことが処世術であるとしている。拠り所がなくなってしまったが、拠り所を自分の外側に探すという習性だけは残っている。
    • 「空気を読め」と言われてそれに従うことに軋轢・不快感を感じない人が多い。その場の空気に従うことと別の場所での空気に従うことに矛盾があっても本人は平気という意味で乖離している。「転向」ということが実質不可能になっている。その場で自分が何らかの「選択」をしているという意識もない。

※要注:以上のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。

大塚氏が話していたことに関して僕は親和的でかなり正論だなと感じたけれど、(おそらく達成されることがない・無限遠点としての目標である)近代的な個・言葉を信じるという意味での左翼的ロマン主義でもあるようにも思えた。それはそんなに悪い意味ではなくイニシャルステップとしては重要なことだと思う。まだ第一歩かよともとれるけれど、それがなければ始まらない。

【追記 9/22】

村上春樹『東京奇譚集』読了

東京奇譚集土曜日は実は仕事をずっとしていて、それから一旦睡眠。ようやく深夜から時間がとれたので村上春樹東京奇譚集』を読む。前回『アフターダーク』を読んだときに作品内のあるフレーズについて書いたように、やはり「今自分が読むべきだった」と思わせられる*1ものだった。かなり満足。多分近いうちに再読すると思う。


僕は村上春樹氏の最近の作品では『海辺のカフカ』や『アフターダーク』よりも『神の子供たちはみな踊る』が好きなのだけれど、今回の『東京奇譚集』も短編形式でありテーマもほぼ同じように思われる。なんと『神の子供たちはみな踊る』の短編の中の一つのサイドストーリーまである*2。タイトルにあるように、東京を舞台として起こる様々な奇妙な不思議な出来事を描く。キーワードは宮台真司氏の言葉を借りるなら「世界の未規定性に開かれる」態度とそれを受け入れる「覚悟」(と「福音」)ではないかと思う。


宮台氏は自身の映画評論『絶望 断念 福音 映画』の中で、「コミュニケーション可能なものの総体」を<社会>と呼び、「世の中にあるありとあらゆるもの」を<世界>と呼ぶ。そして「制御不可能な偶発時によって、自己完結した<社会>の中に不意に名状しがたい<世界>が闖入することがあり、そのとき<社会>の外が突如可視的となり、同時に、<世界>の中にたまさか<社会>があるに過ぎないという「端的な事実」が露わになる。」とする。その「<社会>の外からの<訪れ>を、破壊と共にある「黙示録」として聞くか、敏感さと共にある「福音」(よき知らせ)として聞くか」という対立があると言う。
「福音」としての<世界>の訪れの具体例として映画『マグノリア』と小説『神の子供たちはみな踊る』がとりあげられており、『マグノリア』では「降り注ぐ数百万匹の蛙」が<社会>に闖入してくる<世界>の表象として直接的な非日常として描かれているのに対して、『神の子供たちはみな踊る』では神戸の震災という非日常は「きっかけ」として後景に退いており、「遠雷のごとき震災のざわめきを予知夢とする形で<社会>の外に拡がる<世界>への敏感さが研ぎ澄まされたところに、予知通り、<世界>から「名状しがたいもの」が、非日常の大音響としてではなく、日常の隠された綻びから聞こえる囁きのごとく<訪れ>る」とする。そしてそれは「黙示録」ではなく「福音」へ転換して私たちの<社会>でのポジショニングや動機付けをリフレーミングすると述べる。


これに照らして考えると、今回の『東京奇譚集』には『神の子供たちはみな踊る』の「震災」のような共通的なモメントはもはやない。おそらくもう必要でないほどに我々が見ている<社会>の姿は自明なものでなく、各自個別に綻びやすいものなのではないかと思う。しかし共通的なものでなくとも「きっかけ(奇譚)」は各自個別に遍在しており、それを見逃さず目を逸らさず、覚悟を持って受け入れることができれば、我々は<世界>に開かれうるし、それが「黙示録」的混乱を一時的にはもたらしたとしても、我々の「福音」となりうることである、と肯定しているように思われる。

*1:これは村上春樹氏の新刊を読んだときいつも思うのでかなりあてになりません(笑)

*2:読者なら「淳平」という名前を出せばわかるだろう。

KawakitaのBookmark (2005/09/12-18)