『嗤う日本の「ナショナリズム」』刊行記念 北田暁大 + 東浩紀 トークショー参加


嗤う日本の「ナショナリズム」
動物化する世界の中で―全共闘以降の日本、ポストモダン以降の批評
始めに北田氏が『嗤う日本の「ナショナリズム」』を書くに至った動機が説明された。大きく二つあるとのこと。
ひとつは、連合赤軍事件に至った60年代から70年代初頭の左翼文化のサブカルチャー性を書いてみたいという意識があり、当時の左翼文化を回顧的に懐かしむでもなく、ことさら可能性を称揚するのでもなく、(現在に至る問題として)社会学的に問い直すことを行いたかったとのこと。
もうひとつに、03年に雑誌『世界』に書いた2ちゃんねるを題材とした「嗤う日本のナショナリズム」が2ちゃんねる論と受け止められてしまったが、そうではなく80年代から続くメディアに対する感性をしっかり論じておきたかったとのこと。
当初はその二つは別物だったが、東浩紀氏×笠井潔氏『動物化する世界の中で』を読んで二つが交差する可能性を感じたとのこと。そのから出てきた問題として「60〜70年代の問いを現代とをどう接合するのか、接合していいのか?」があり、今回のトークはそれをテーマに議論が交わされた。単純化した立ち居地を示せば、北田氏は「繋いで考えてみた」、東氏は「断絶している」と主張していた。


東氏は「日本の中でメディアに対する感性は連続して発生してきているのか?」と問題設定をした上で、テレビというメディアとネットというメディアは成り立ち方が違うと説明。テレビは「一方向的」「中央集権的」「他に繋がろうとしても別の中央集権的なメディアを必要(投稿番組とか雑誌の投稿記事)」とする構造であるのに対し、インターネットは「分散的」「双方向」とまったく正反対な構造であるとし、動物化している世代のメディア基盤はインターネットであり、その世代の行動を解析するときにテレビやラジオの回路の延長線上に考えることが適切なのか、とそれぞれに対する感性を直接接続することに違和感を抱いているとしていた。そしてそれは「現在」をどう評価するのかという問題に繋がるとのこと。現代発生している現象を先行世代に対するレスポンス(過剰な自意識、言説のズラシ)として読み込むべきではないのではないかと。
一方で北田氏が問題としたのは、調査をしてみれば結果が示すように、若者がネットや携帯などで他者との関わりを指向する中で、自分としての「私」や(ナショナリズム的なものや純愛的なもののような)ロマン主義的な対象へのコミットメント、没入というものが登場してきており、であればこのような論理の構造を考えておかないとまずいのではと主張していた。そのために60年代の感性を純粋化した連合赤軍事件を始点として、現代を「反省」という串で貫いて分析を行おうとしたのが『嗤う日本の「ナショナリズム」』とのこと。
東氏は現在においては現象に対して距離をとり反省してメタ的立場に立とうとする振る舞いやアイロニーであろうとうする振る舞いと、単なる模倣にずぎないことが峻別できる状態ではない、つまり模倣とアイロニーの区別がつかない時代ではないかと主張。連合赤軍事件以降、(ツッコミ文化など)非政治的であることの政治性が意識されたが、80年代にアイロニーは高度な内面性を獲得するための手段ではなく、(わかるやつはわかるという)ゲームのルールという単なるリテラシーの問題になってしまい、そしてさらに時代が経てば、非政治的であることは単に非政治的なだけになったとのこと。なので『嗤う日本の「ナショナリズム」』にあるような連合赤軍事件を「起源として」考えていいのか。アイロニーの構造だけで非政治的であることこそ政治的であるということがいつまでも担保できるのか、現在のネットの自意識的な言説は単なる模倣の連鎖にしか見えない、と主張していた。
北田氏はそれをアイロニーが行き着いた果てと考え、東氏はそこに大きな断絶があると考えていた。非政治的なことをやっていてもそれは「あえて」の振舞いであって実は政治的なんだということが社会的に機能することが、いつどこから失われたのか無効になったのかということでは95年(〜98年)*1と見極めは二人とも一致していたが、結論が異なっていた。


非政治的なことをやっていても政治的であるという二重構造が担保されるという認識と、非政治的なことは単に非政治的にすぎないという認識の分岐は実践的には大きい、ということが共有され、その後、論壇の機能不全、現代において政治的であることとはどういうことなのか、という議論がなされた。人文系論壇人はかつてはどんなイシューにも口を出せたが、それは冷戦構造の賜物であったと。冷戦構造崩壊後は、その道のスペシャリストでないと発言を聞き入れてもらえない状況が出現しており、またかつては言説・メッセージが届くべき人に届けばその後その人がハブになって言説のメッセージが普及するという「情報の2段階論理」が信用されていたが、現在はその信頼はまったく崩れ去っているとのことで、人文系の人間が政治的であるということは現在においては非常に難しいとの状況認識がなされた。人文系に興味を持っている人間には大変刺激のある議論だったように思う。

おまけ①:今回、実は宮台真司氏が途中から会場に聞きにきていて、最後に乱入(笑)。スペシャリストは(他分野を含む)スペシャリスト間の優先順位をつけることは不可能なので、政策決定者などは逆に(多分人文系・社会科学系の)ジェネラリストの言説の需要があるとの主張。東氏と「プロレス」を展開していただき大変楽しめた。


おまけ②:病欠された鈴木謙介氏のblog:SOUL for SALEを読む限りでは、鈴木氏も東氏の立場に近い。

*1:阪神大震災オウム事件原発事故、「リスク」概念、Windows95登場、携帯電話普及

W杯アジア最終予選 グループ2 第3戦・日本対バーレーン

イベント終了後に自宅でビデオを見る予定でしたが、街頭に人だかりができていて街頭放送をやっていたので後半40分くらいから鑑賞して結果を知ることに。家に帰ってちゃんと最初から見直しましたけど。

結果はとりあえず

結果はとりあえず勝ち点3ゲットしたことはすばらしい。勝たなければいけない試合で勝ったのはすばらしい。たとえオウンゴールであっても。これでグループの3カ国と1度試合が廻って2位。今日のバーレーン戦もヤマでしたが、次の6月3日のバーレーン戦もヤマです。ここで勝てば(そして6月8日の北朝鮮戦で勝てば)W杯出場はほぼ間違いないでしょう。8月のイラン戦が消化試合にできれば一番よいのですが。

次の試合はどうするの?

このサイトでとりあげたからではありませんが、ボランチにポジションを移動した中田選手はよかったです。存在感がありました。かなりのボールが彼を経由していきました。システム論議はまあ3-5-2でいいでしょう。それでやっていくと仮定すると、中田英寿選手の競合相手は中村俊輔選手ではなく小野伸二選手ということになります。両選手とも中心選手になれます。二人一緒に出ることは守備面から考えてないです。ダブル・ボランチのもう一人はかならず守備ができる選手が必要です。さてチーム中田とチーム小野、どちらがよいのでしょうか。決断を下すことはできるのでしょうか。

そもそもどんなチームを望んでいたのか?

以前からセルジオ越後氏が指摘しているように、現在の日本代表は最小失点・最少得点差で守り勝つチームになっております。ジーコが監督になることでそういうチームを望んでいたのか検証されなければならないでしょう。現在のままではW杯に出場する可能性はあっても、02W杯で露呈したある程度強いチームから得点を取って勝つという問題は解決することは不可能でしょう。

どういうサッカーが見たいのか?

そういう監督を雇っている日本サッカー協会はどういう強化方針をとっているのでしょう?目指すべき「日本のサッカー」なるものはあるのでしょうか。これまでは日本サッカーが発展段階であったため、若年層を強化してきたとはいえ自生的に傑出してきた選手が代表になっておりましたが、今後は日本がどんなサッカーをしていくのか方針をきめ、スタイル、システムを決め、育成段階から代表と同じポジションを経験させ、各ポジションごとのスペシャリストを育成していくことが必要ではないかと。そのためにはまずトップがどのようなサッカーを目指しているのかスタイルとシステムを明確に発表する必要があるかと*1


と、とりあえず目先の話から中・長期的な話までいろいろ思いを巡らされる試合でした。多分ジーコ監督になってから感じているモヤモヤはそう簡単には晴れないかと。
日本 1-0 バーレーン

*1:サッカー強国はほぼみなこの育成方針を実施している