『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』鑑賞

kwkt2007-09-01

本日、109シネマズ木場のレイトショーの時間帯に庵野秀明総監督『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を観てきました。昼間に渋谷にいたのですが渋谷の上映館であるアミュ−ズCQNは速攻で最終上映まで埋まっていました。今回は10年前のように映画館の上映時間繰上げまでは発生していないようでしたが、映画の日で1000円ということも手伝ってか、やはり多くの人が観に行っていたようです。ファンの方々の期待の高さからか映画館の周囲の雰囲気がちょっと違っている気がしました。


「序」の内容は基本的にはテレビ版の第1話から第6話のヤシマ作戦まで。昨今の映像技術が投入されており特に設備・軍事関係の画は10年前よりディテールまでかなり精密に描きこまれておりました。また新作シーンもかなりあり、旧作を観ている人も飽きないように工夫がなされていました。
ただ6話分+新シーンを98分に圧縮しているため、テレビ版で効果的に使われていた沈黙・間を使ったシーンは大幅カット。めくるめく話の進行・展開はちょっと性急な感があり(旧作を観ている人はあんまり問題ないとしても)旧作を観てない初見の方にはちょっとだけ不親切かもと感じました。まっさら初見で行くよりもテレビ版・第1話〜第6話(あるいは全話)を観てから行った方がいいかも。


今回、僕は追加されたセリフ「(ご)●●の◎◎を●●●ください」「私は(省略)●●●ます」がすべてだと思いました。そういう意味で主役はシンジ君ではなく「彼女」。劇中でも大変重要な意味のあるセリフでしたが、僕にはこのセリフはまさに「◎◎」であり「二射目」たる新展開の次回作以降の決意表明であり制作者の方々のやる気も込められている新劇場版全作を通じた壮大なオープニングになっているように思いました。そういう意味で「序」というタイトルの看板に偽り無し。*1
「序」本編の内容および予告の謎解は好きな方がいろいろやってください。僕はパス。とりあえず次回「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」も観に行こうかと。

*1:それともテレビ版か10年前の劇場版かは失念しましたが「これは病人が作った作品」と評したという、ゲンドウのモデルとの噂もあった○○○氏への庵野氏からの10年越しの宣言かもとか意味もなく思ってみたり(←これはかなりどうでもいいことです)。

『ナツカレ』買いに初コミケ

kwkt2007-08-19

旧・成城トランスカレッジ、現・トラカレ*1という人文系サイトを運営されている荻上チキさんが宮台真司氏や内藤朝雄氏のインタビュー等を掲載した同人誌『ナツカレ!2007』をコミケで頒布されるとのことで、東京ビッグサイトでお盆の時期と年末に開催される世界最大規模の同人誌即売会であるコミケに、初めてとうとう(?)行ってきました。

はっきり言って想像以上のスゴイ人出でした。こんなに大規模に人が密集したのを見たのはいつぞや明治神宮に初詣に行って以来かと。この分野がすごく大規模な市場であることを実感しました。
初めて参加した人は迷うそうなのですが、それなりに彷徨いながらも『ナツカレ』は無事購入できました。いろんな意味でよい経験になりました。


id:rnaさんも『ナツカレ』目当ての初コミケだったそうです。

蓮實重彦とことん日本映画を語るVOL.18『日本の幽霊 Part2 ―魑魅魍魎から遠く離れて―』参加

青山ブックセンターのABC BOOKFES 2007のイベントとして青山ブックセンターの上にある東京ウィメンズホールで開催された蓮實重彦氏による恒例イベント「蓮實重彦とことん日本映画を語る」のVOL.18『日本の幽霊 Part2』に行ってきました。
今回のテーマは前回に引き続いて「日本の幽霊」。前回が映画が伝統的に見えないはずの幽霊をどのように表象してきたかという話だったのに対して、今回は現代の日本映画の監督たちがその伝統との関係においてどのように幽霊を扱っているか、という話だったように思います。

導入として、映画の中でお化け屋敷が描写されている久松静児監督『氷柱の美女』が紹介され、作中の登場人物たちはお化け屋敷の幽霊に怖がるのですが作品を観ている方はそれがまったく怖くないこと、だから幽霊は「人間が演じてこそ」の恐怖ということが「化け猫」の例で紹介されました。また狐とともに人間を化かす「狸」が描かれてきた例が紹介されました。狸は人間を化かしても禍々しい結果を及ぼさないのですが、大曽根辰夫監督『七変化狸御殿』ではフランキー堺・狸がジャズを演奏し美空ひばり・狸が音楽にあわせてタイツ姿で意味不明な唄を歌うというすごいことになっていましたw それに拮抗しうるアナーキーな最近の狸物の例として鈴木清順監督『オペレッタ狸御殿』が紹介されました。

そして最近のJホラーと呼ばれる作品群が登場。前回の話でもあった画面のフレーム外から人間の「手」が出てくる恐怖、そして「子供」が何かしら関係しそこでテーマとして母親の「母性」が描かれていることが紹介されました。

また日本映画では作中の登場人物たちが幽霊ではなく「他界の気配」を感じる場面が多くあるとのことで、その「気配」がどのように表現されてきたかが紹介されました。黒沢清監督の場合は、風で木々やカーテンがそよぎ場に大気が流れることで何かの出現/消滅の「気配」が表現されているそうです。

また在るべき場所に居らず居ないはずの場所に居るという「存在」と「非在」が描写されている例が紹介されました。今そこに居た人が不意に居なくなる例、ある時間を経て人が居なくなる例、死んでいるはずの人間が普通に登場してそこに居る例などが様々な作品で紹介されました。

最近の日本映画では、他界とこちら側、存在と非在の間で人々が揺れ動くシーンが多いそうです。(錯視とは違った観点で)自分に見えていることが他人にも見えているのか、同じものを見ているようで見ていない/見ることができないのではないかという問題。そこから派生して、映画を観る体験も「原理的には」「民主的に」「平等に」同じものを観ることができるはずでいていかに異なったものしか観ることができないか、「皆が平等に可視的であることはありえない」という、ある意味「幽霊」よりもよっぽど恐ろしい映画を観る体験における「存在と非在」「可視と不可視」の問題が提示されました。


最後に楊徳昌(エドワード・ヤン)監督が2007年6月に亡くなられた追悼として、監督の作品ではなく監督が出演されている侯孝賢監督『冬冬の夏休み』が紹介されました。エドワード・ヤン監督の作品をまだ1本も観ていない人は反省して観る機会があれば観るようにとの仰せがありました。

追記:2007-08-24

今回のイベントの詳細なレポはこちらへ。

萱野稔人氏×北田暁大氏トークセッション「権力と正義」 参加

権力の読みかた―状況と理論『国家とはなにか』
 ジュンク堂の池袋本店だけでなく新宿店でもトークセッションが開催されるようになったようで、本日開催された萱野稔人氏×北田暁大トークセッション「権力と正義」(萱野稔人氏『権力の読みかた―状況と理論』出版記念)に行ってきました。


※要注:以下のものは、私が見聞きして印象に残ったことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。

両者の国家論のスタンスについて

  • 北田氏は『責任と正義』で「正義・公正(Justice)」の観点から国家の問題を論じた。
  • 萱野氏は『国家とはなにか』で「暴力」の観点から国家論を展開。
    • 簡単に国家はこうであるべきという「べき論」に行くのではなく、国家の機能分析の議論を展開している。
両者が重なり合う論点
  1. 国家を考える上で「物理的な暴力」「身も蓋もない暴力」を理論構成に組み込んでいくと問題意識。
  2. 両者とも再配分型のリベラルな国家のあり方を肯定するが、理論構成上はロバート・ノージックを重視。
    • ノージックは自然人たちの私的な処罰権・物理的な暴力をどう抑制し制度化していくかという国家論を契約論的な伝統に基づき展開。
    • ノージックの結論部分であるリバタニアニズム的見解に否定的。でも論理構成上ノージックを重視。
  3. 国家のしたたかさを真剣に受け止める。
    • 近年「想像の共同体」としての国民国家(Nation State)を批判・脱構築・相対化していく議論が広まった。
    • 国民国家は近代の産物であっても、それ以前から国家は存在しており、脱構築・相対化の作業の重要性は認めつつも、それとは異なる固有ロジックで国家というものが作動してしまう面があるという認識。
    • 存在論的国家論がずっと忘れられてきた。忘れている人に限って「国民国家を超える」「国家など存在しない」と主張してまいがち。
「暴力」から考える国家
  • 国家とは一定の領土の中で合法的な暴力を独占している、国家だけが戦争・逮捕・刑罰等の物理的強制力を用いる権限を持っている、という定義。
    • 暴力が行使される前は交渉の余地はあったとしても、いったん発動されてしまった暴力に対しては抑止する手段が最終的にそれを上回る暴力しかないとすると、好むと好まざるとに関わらず暴力の問題に直面する。
    • 暴力を暴力で抑止するという基本的な運動の上に国家が成立っているとするならば(実際それで成立っている)、はたして簡単に「国家を超える」ことが我々にできるのか。
    • 国家が集中的に独占・管理することでより暴力が組織化されて計算可能な方がよいか、個々人・各組織でバラバラに管理されていて暴力が予期不可能な方がよいか。明らかに通常は前者のほうがよい。
    • ホッブスの「自然状態」はフィクションだという物言いがあるが、それは現に事実上国家が独占的に暴力を管理している状態だから発生していないだけで、フィクションではなく実際に起こりえること。
  • 「国家を超える」のが思想的に正しくて国家の中に留まっているのは思想的に遅れているというところに価値基準を立ててしまうと、おそらくダメ。

国家による承認・アイデンティティの問題について

  • 同性婚事実婚を制度的に求める人たちは結局国家というものを前提としてしまっている」「制度上の社会的なマイノリティとしてマジョリティに対抗しているように見えても国家の正統性を再生産してしまっている」という批判がラディカルな立場からなされる。
    • マイノリティの社会的承認が重要な政治的課題であるとして、国家からの承認が国家を前提としているという批判スタイルははたして可能なのか/妥当なのか。
    • 国家による承認ですぐにナショナリズムを思い浮かべがちだが、国家は単に暴力を保持しているだけではなくて正統性を調達する必要性も持ち合わせている。自身の行動が「公的」であるという定義権も集中させている。
    • 現実に公的であることの定義権を(ある程度)独占している国家をあたかも存在しないかのように脱構築を図るのは、むしろ国家の剥き出しの暴力装置としてのあり方を黙認してしまうことになるのでは。
  • 国家による承認を二つのレベルにわけて考えるべき。
    • ひとつは権利の承認。国家は物理的な暴力を背景に、裁判所で法律を背景に判決を下し、社会に権利の体系を維持・構築していく。その最も基本的なものが所有権。誰にどんな権利が付与されているかを体系付ける。
    • もうひとつはナショナリズムにも関わってくる国家がその人に存在の価値を与えるという意味での承認。国家がその人の生命の価値を認めるアイデンティティの問題(典型的には靖国問題)。
    • 権利が社会の中に設定されることを最終的に保障する「もの」は何か。個人の所有権を最終的に保障する「もの」は何か。所有権を無視する場合は制裁を加えるという「暴力」。
  • 資本主義とは所有権を前提とした社会関係。所有権が国家の暴力によって維持されているとすれば、国家と資本主義の関係を見直さなければならない。
    • 資本主義がグローバリゼーションを通じて発展していけば国家は弱体化・消滅するだろうと言われてきた。しかし資本主義を成立させるための権利関係を保障するのが暴力しかないのであれば、資本主義は国家が今のところ必須と考えられる。
    • 所有権を確定し、所有権が侵された場合に処罰を行うのは誰なのかという問題をどう考えていくのかが社会契約論のスタート地点。
    • 議論の構成はロック的・ノージック的なものと近接しているが、結論としてはリバタリアン的な市場原理主義的な帰結には否定的な立場をとるとするとどういう論理展開となるのか(おそらく矛盾ではない)。

国家と再分配について

  • 福祉国家とは税金を取り社会保障として再分配すること。最近は財政難・社会意識の変化などで機能していないという現状がある。
    • 「再分配」を行わない国家は存在しない。国家自身のために使用する場合でも、例えば軍事基地を作る場合でも、それがすでにひとつの再分配として機能する。
    • 現在ネオリベと呼ばれる最小国家が富の再分配を行っていないわけではなく福祉国家と再分配の方法が異なる。福祉や公共事業での再分配ではなく、システム管理やテクノロジー育成、治安維持のための再分配を行っている。
    • 国家がどのような再分配を行うかということで常に政治的な議論・闘争が生まれ得る。
  • 国家がより福祉政策の方を実施するようになるには
    • 国家は国家にとって得策である限りにおいて福祉政策を行った。戦後の経済復興期において、共産・社会主義圏に対抗する意味もあり福祉政策を行い富を再配分し、国民がこれまで購入できなかった新たな生活必需品を購入し、企業が儲かりさらに税金が入りというサイクルが回っていた。冷戦構造が崩壊しそのサイクルの有効性がなくなってきた時点で政策転換が起こる。
      • 萱野氏は国家を暴力の集積装置としてとらえており、事後的に国家は正統性を調達するだけで必ずしも福祉政策・公共事業が帰結されるわけではない、でも方法はどうあれ再配分を国家は必然的に行いうる、という考えのように見える。
    • 国家を単なる暴力の集積装置のみではなく公的な正統性を維持していかなければならないものとしてみることで、福祉政策的なものを正統化できないか。
      • 北田氏は国家は暴力の集積装置でありつつも、国家はその正統性を主張し生成し続けていかなければならないという点が、国民の最低限の生活保障(social minimum)を担保するための福祉政策・公共事業の一定の根拠になりうるのではないかという点を論じていたように思える。
憲法第9条と萱野国家論について
  • 日本国憲法第9条の非戦/非武装という考え方は「暴力」を基本とする萱野国家論とどう接合されるのか。
    • 憲法第9条はあくまで対外的な規定。日本という国家の領土内での公的な暴力の独占という意味からすれば特に矛盾しない。
    • 非戦・非武装の規定をもっている国家は日本とコスタリカ
      • コスタリカは集団安全保障の外交勢力バランスを利用した方が自前で軍隊を整備するよりも国防上効果的だからという地政学的な要因に負っている。
      • 日本は弟二次大戦で敗北し、アメリカ軍の占領下またはアメリカ軍の基地を国内に配置する安保体制という歴史的条件が前提となって、自前で軍隊は保持しない・紛争解決に武力を用いないという規定を持っている。
    • 第二次大戦後、連合国は旧枢軸国がまた暴走しないようその国の軍事力を管理しようとした。
    • 戦後レジームからの脱却」とは軍事力を管理される側からまた管理する側・軍事を公共事業にできる側になりたいということ。
    • 軍需産業はテクノロジーが集約され不況の影響も受けずに需要を生み出すので、資本主義の中でカネのなる産業であり再分配としても機能しうる。
    • 非戦・非武装は一定のコンテクストの中で成立しているものであり、国際社会の中では「合法的な暴力の独占」という事態は変わらない。

会場に東浩紀氏がおられ、以下の所見・応答がなされていました。

  • 本日の議論では国家が「軍事・治安上の保障」「経済的・福祉的な保障」「感情・承認の保障」を満たすことが一体となって話が進んでいた。
  • これら3つを果たして国家だけで満たすべきなのかという観点から、個々テーマでどうやって保障していくかという方向で議論を展開したほうが有効ではないか。
  • その3つが要請されるようになったのは近代国民国家になってから。なぜ3つがまとめて国家に要請されるようになったのかを歴史的に考えることが重要かもしれない。

※要注:以上のものは、私が見聞きして印象に残ったことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。


トークセッションについては参加されたid:syakekanさんが簡潔にまとめられてます。

id:NEATさん情報提供。萱野氏が本トークセッションについて言及されているそうです。

新訳『カラマーゾフの兄弟』完結記念シンポジウム「ヴィヴァ!カラマーゾフ」 参加

カラマーゾフの兄弟(1)カラマーゾフの兄弟(2)
カラマーゾフの兄弟(3)カラマーゾフの兄弟(4)
カラマーゾフの兄弟 エピローグ別巻 (5)21世紀ドストエフスキーがやってくる
鼻/外套/査察官イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ
地下室の手記初恋
 え〜非常に恥ずかしながら僕はまだドフトエフスキー(というかロシア文学自体)に触れたことのない無教養者なのですが、先日近所の本屋に行ってみたら光文社古典新訳文庫なるシリーズで亀山郁夫氏の新訳によるドフトエフスキー『カラマーゾフの兄弟』が目に留まり、新訳で読みやすかったらチャレンジしてみようかなと思いました。でもその本屋には4巻と5巻しか置いてなかったので、そのときは購入しませんでした。それが気にかかっていたのか、東大で亀山郁夫氏新訳『カラマーゾフの兄弟』完結記念シンポジウム「ヴィヴァ!カラマーゾフロシア文学の古典新訳を考える―」というシンポジウムが開かれることをたまたま知ったので行ってみしました。会場は学生さんから年配の方まで200名くらいは入りそうな大講義室が満員で立見がでる程でした。
昨今、光文社古典新訳文庫に限らずロシア文学の新訳が活況を呈しているとのことで、作品自体の魅力とともに「新訳」という点も大きいのではないかということで今回のシンポジウムが企画されたようです。ロシア文学初心者の中の初心者である僕としては初めて知ることばかりで勉強になりました。また文学作品を「翻訳」する・「新訳」するということはどういうことなのかという点についての話が興味深かったです。


※要注:以下のものは、私が見聞きして印象に残ったことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。

第一部:ロシア文学古典新訳を語る―翻訳家大集合

第一部では光文社古典新訳文庫にてロシア文学を新訳された方々によるパネルディスカッションが行われました。最初にシンポジウムの企画者である沼野充義氏から挨拶があったのですが、新訳の意義のひとつとして原作を母語とする人はずっとオリジナルの古い言葉のまま読まなければならないが原作が母語でない人は新訳という新しい・現代の言葉で読み直すことができるということを述べられていました。
登壇者はゴーゴリ『鼻/外套/査察官』を新訳された浦雅治氏、トルストイイワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』を新訳された望月哲男氏、ドストエフスキー地下室の手記』を新訳された安岡治子氏、トゥルゲーネフ『初恋』を新訳された沼野恭子氏の4名でした。

  • 浦雅治氏はゴーゴリ『鼻』を落語調で新訳。
    • 師匠・江川卓氏がゴーゴリ『外套』を落語調で訳した先例。
    • ゴーゴリの作品の原文が読むための論理的な文章というよりも流れのある語り・言い淀み言い戻りのある語りの文章のため。
    • 上方調だと関西文化の色がつきすぎるため、昭和の二大名人・古今亭志ん生の語りをモデルに翻訳。
  • 望月哲男氏はトルストイの短編作品を新訳。
    • トルストイの短編作品のイメージは説教臭いが思想を媒介に世の中を変えようという使命感のような熱いものがある。説教風にならないようにかつ熱さや感情が伝わるように翻訳。
    • 翻訳は原作と向き合い自分が体験したことを言葉にするしかなく、「新訳だから」と意識しなくても他の人と同じことはできない(異なるものになる)。
  • 安岡治子氏はドストエフスキー地下室の手記』にある「2×2=4は死の始まり」というフレーズがご自身が扱ってきたロシア文学作品と通底するものがあると感じていたため翻訳。
    • ロシア文学には暗く辛く重い重厚タイプと笑いや軽妙な語り口のタイプのものがあるが、ともに人間は理性や合理主義で割り切れないそこから零れ落ちる部分にこそ意味があるという意識が存在。
    • 後続の20世紀のロシア作家たちはドフトエフスキー『地下室の手記』の思想・認識をいろんなところで参照している。
    • 翻訳とは最も濃密な読書経験。ドフトエフスキー作品は「でも」「しかし」が連続して趣旨が追い難い悪文が存在。わかりやすく工夫して日本語を配置。
    • 自意識過剰な主人公の一人称を「私」「僕」「俺」にするかテイストの違いで悩んだ(「俺」を選択)。
  • 沼野恭子氏はすでに多くの文学者が翻訳しているトゥルゲーネフ『初恋』を新訳。
    • トゥルゲーネフ『初恋』は、初老の男たち三人が自分の「初恋」について語り合う場面で、口下手な一人が初恋をノートにまとめたものを読み上げる部分がほとんどの内容を占める。
    • これは他者に「語って聞かせる」ための物語。説明調ではなく柔らかい話し言葉を選択。
  • トゥルゲーネフは作品中で「父親への愛」を表現。ドフトエフスキーのテーマは「父殺し」。トルストイは「家父長制的な父」を理想としている面があり、チェーホフの作品は「父親不在」。19世紀に活躍した作家たちの「父」の扱いが興味深い。
問題提起:二葉亭四迷によるトゥルゲーネフ『アーシャ(片恋)』翻訳のある一節について
  • トゥルゲーネフ『アーシャ(片恋)』の中で二葉亭四迷は恋愛のクライマックスのシーンで直訳すると「私はあなたのもの」という女性のセリフを「死んでもいいわ」と訳した。
    • ロシア人が「死んでもいい」と言うだろうか。日本の「死の美学」が関係してないか。
    • 二葉亭四迷は江戸文学から脱して近代文学の道を開いたと言われるがこれは一歩後退なのか。
    • 海外の作品を翻訳する際に日本の言葉を使用すれば日本の文化背景が纏わりついてしまうことがあるがどう対処するか/しうるか。
  • 翻訳者は作品を媒介する「透明人間」の意識がある。しかしどうしても自分(や文化的背景)が出てしまう。どの時代でも翻訳者はそれを引き受けざるを得ない。
  • 翻訳者は作品の解釈者であり、それを母語に変換する表現者であり、読者に届けるための演出者でもありえる。
  • 新しい訳によってそれまでの訳との違いが出て、その時代に前提としていたことが浮き彫りになることがある。

第二部:徹底討論―ここがすごい『カラマーゾフの兄弟

ドストエフスキー父殺しの文学〈上〉 (NHKブックス)
ドストエフスキー父殺しの文学〈下〉 (NHKブックス)
 光文社古典新訳文庫で『カラマーゾフの兄弟』を新訳された亀山郁夫氏にシンポジウムの企画者である沼野充義氏が質問する形式の対談でした。

  • 新訳を出す際に先行者たちの訳とどう向き合ったか?
    • 当初、師匠の原卓也氏の訳や江川卓氏の訳を読みながら翻訳。編集者は米川正夫氏の訳を推薦。池田健太郎氏の訳も参考。
    • 会話が直訳にならないようにセリフの雰囲気や流れ・語りのスピードや勢いを殺さないような文体を心がけた。
  • カラマーゾフの兄弟』は次の長編小説とあわせた二部構成の作品とも言われている。ドフトエフスキーはそれを書かずに死んでしまったが「続編問題」はどう考えるか?
    • 亀山氏は『カラマーゾフの兄弟』の続編を空想する新書を出版予定。
    • 国家の「父殺し」としての「皇帝暗殺」のテーマがよく言われる説。
      • 「皇帝暗殺」はテーマであっても、主人公に皇帝暗殺させることはないのでは。
    • ペトラシェフスキー事件(逮捕された多数が死刑、若年だったドストエフスキーは皇帝の特赦からシベリアへ流刑)が関係してくるのでは。
    • 晩年のドストエフスキーの思想として社会主義批判があると思われる。
  • カラマーゾフの兄弟』を翻訳してきて感じたことは?なぜヒットしたのか?
    • ドフトエフスキー作品に接していかに「傲慢さ」が人間にとってよくないかを再認識。
    • 現代の時代状況を受け止めるだけの奥行きがロシア文学にはあるのでは。19世紀の「ロシアの苦悩」が現代の苦悩を引き受ける面があるのでは。

※要注:以上のものは、私が見聞きして印象に残ったことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。

新訳本抽選会

さあ亀山郁夫氏訳の『カラマーゾフの兄弟』を帰りに買って帰ろうかと思っていたら、シンポジウム終了後に登壇者各氏が新訳された書籍を各5名へプレゼントするという企画がありました。希望者が多くて当たらなくてもやはりどうせなら『カラマーゾフの兄弟』だろうと思い抽選券を投じたところ、な、なんと当選! 亀山郁夫氏訳の光文社古典新訳文庫カラマーゾフの兄弟』全5巻をいただいてしまいました。しかも亀山氏のサイン入り。マジでうれし過ぎです。今年の夏の課題図書にしたいと思います。

文化系トークラジオLife・5/19公開収録に行ってきました

TBSラジオの一室にて行われた文化系トークラジオ5/19公開収録に行ってきました。しかも当初はLife初心者の友人をLife普及のために無理矢理連れいて行こうとしていたのですが、先日従妹がLifeのPodcast版で紹介されたこともあり、その従妹を連れて行ってきました。
Podcast版の収録では「文化と貧乏/文化系とお金」というテーマでトークが繰り広げられ、お金がないときにいかに文化系文物にアクセスすることができるのか、昔の文化系文物へのアクセスのし難さと今日の相対的に文化系文物へアクセスしやすくなった環境との違いは何か、そこで何が変わったのか、というようなことが話され大変今日的かつ切実なテーマだったように思います。2時間があっという間でした。

〈反転〉するグローバリゼーション収録終了後には、従妹とともに黒幕はせがわさんやcharlieに挨拶することもでき、従妹は『〈反転〉するグローバリゼーション』にcharlieからサインをもらい、番組常連の「けっち」さんや「sela」さん、僕のblogを見てくれているという「えてる」さんと実際にお会いでき、大変楽しい時間でした。また公開収録があるそうなので機会があれば参加してみると楽しいと思います。

あと鈴木謙介氏は『〈反転〉するグローバリゼーション』に続いてNHKブックスより『ウェブ社会の思想―<偏在する私>をどう生きるか』という新刊が5月30日に発売されるとのことです。こちらも注目です。

映画『パッチギ! LOVE&PEACE』鑑賞

 本日より公開の井筒和幸監督の映画『パッチギ! LOVE&PEACE』をシネカノン有楽町にて封切初回の舞台挨拶付の回で観て来ました。(本来はここまでするつもりはなかったのですが、他の予定の兼ね合いもあり初回舞台挨拶のある回に行くことになりました。)


物語は1974年、前回から引き続き登場のリ・アンソン(井坂俊哉)とリ・キョンジャ(中村ゆり)の一家は、アンソンの一人息子チャンス(今井悠貴)の病気を治すため京都から東京の父方の叔父の所に移り住んでいるというところから始まります(母・モモコは白血病で病没とのこと・・・)。もうひとつ父方の叔父が登場したこともあり(?)、前回語られることのなかった一家の父親についての終戦前の兵役シーンが、物語の中で誰かが回想するとかではなく、所々で挿入されていきます。
前作同様に様々なエピソードが展開され、結末に向って収束・収斂していく(?)物語なのですが、前回の境界線の越境者・媒介者はそれまで何も知らなかった日本人少年・コウスケだったとすると、今回は兄の息子の治療費の手助けをするために、そして自分の世界を拡げるために未知の芸能界へと進出していくキョンジャがその役割を担っていると言えるでしょうか。


しかし今回の子供の「不治の病」ネタはちょっといかがなものかというのが正直な感想でもあります。「どんなことがあっても命を継いで生きていけ」というテーマだったと思いますが、描くべきその「どんなこと」とは子供の「不治の病」なのか、言説としての差別だけではない「事実としての差別」という「理不尽」なのか、と言われれば僕は圧倒的に後者だと思うのですが。とするなら今回は息子を病気にすることもなく、アンソンも脇に置いて、完全に「キョンジャの物語」としてよかったようにも思いました。
前作と比べると、続編ということもあり最初から上映館が多く来客がある程度見込まれているという環境の違いも作品の作りに影響しているのかもしれません。前作が若さ溢れるベタな演出と映画の外側まで突き抜けていく強烈な「メタ・メッセージ」(パッチギ!)があった作品だったとすると、今回は「越えていく」という前回のメタ・メッセージの(1974年当時における、そしてそれは現代においてもそう変わっていない)「不可能性」をこそ描くべきではなかったかと思います。キョンジャのシーンには多少それを感じることができましたが、それ以外では「家族の絆」と「命を継いでいく世代」という明確なそしてベタな「メッセージ」を持つ物語になっていたように思います。上映後に大きな拍手が起きましたが(僕もしましたが)どこかにひっかかりがあって完全なる大絶賛の拍手ではなかったように思えたのは僕の気のせいでしょうか。


などと言いつつも僕は今回また加藤和彦氏の音楽で泣かされました。まさか挿入歌で「アリラン」が流れるとは思っていませんでした。僕に「恨(ハン)」という気持ちが理解できているなんて安易に言うことはできませんが、以前ある作品で感動的に使用されていて大変印象に残っており*1、今回の映画で使われたシーンも絶妙だったため、あの哀調に完全にやられました。


「日本人側の視点がない」とか「在日礼賛映画」とか「歴史を歪曲している」とか云々言っている人が今回も大変多いようですが、「ある立場の人たちからは日本人や歴史はそういう風に見えている」ということを示している作品であり、自己イメージも歴史も常に他者が介在するという意味で自分(たち)だけの唯一無二の真実ではない以上、極端な事実の歪曲がないのであれば全く問題ないと思います。


上映後の舞台挨拶では藤井隆氏が場を持たせるために非常に気配りされていたのと、チャンス役の今井悠貴クンが大変キュートだったのが印象的でした。

今回の上映でまた「パッチギ!」で前のエントリーにアクセスが来ているので、一応掲載してみます。